「王道」と「異端」のバランスが崩れている
週刊誌が「異端」の地位にいられなくなるとするのならば、かつてのような大きな失態も裁判の敗訴もより許されないメディアになる。その先に待っているのは、自民党裏金問題で圧倒的な特ダネを連発した朝日新聞が、だからといって社会のなかで「朝日砲」とは呼ばれないように、ちょっとやそっとのスクープでは何も言われなくなっていく未来ではないか。
私はメディアには多様性とエコシステムが必要であり、王道メディアと異端メディアの両方がバランスよく成り立ってこそそれらが実現するという立場をとる。そのために必要なのは、「王道」のメディアが価値観を変えて、より強い報道を繰り出すことだと思うのだが、それは論を改めたい。
いずれにせよ、大切なのは現実だ。俗物主義の象徴でもあった下半身のスキャンダルは世界的な潮流の中で、ニュースの王道へと位置付けを変えていった。これ自体は歓迎すべき変化だが、だからといって週刊誌報道がすべて正しいとか、ここに王道のジャーナリズムがあるという話に単純化してはいけない。逆に週刊誌は売れるためなら間違いがあっても報じるとか、新聞はだらしないというのもまた単純化した極論だ。週刊誌のスキャンダルによって熱狂した論調は二極化し、議論のバランスは大きく崩れている。
「たかが、週刊誌。されど、週刊誌」はバランスの取れた良い言葉だと思う。週刊誌は確かに「今」をつかんではいるが、永続するという保証はどこにもない。過度の擁護、過度の批判で日本のメディアが歴史をかけて積み上げてきた多様性を手放してはいけない。