復興に成功した名古屋市、福井市
日本の主要都市は、戦災で大きな被害を受けたが、東京では、当時の安井誠一郎・東京都長官(のちに初代民選知事)がさしあたっての救援ばかりを優先させ、将来ビジョンを持たなかったので、高度成長期にパッチワーク的改造を強いられた。日本橋の上に高速道路を建設したのは、安井知事時代の「とりあえず元通りに」というなまくらな復興精神のツケを払わされた格好だった。
一方、名古屋では市中心部に「100メートル道路」(道幅が100メートルある道路。「久屋大通」と「若宮大通」の2本ある)などが建設され、近代都市として発展の基を築いた。1959年の伊勢湾台風でもこの地域は大きな被害を受けたが、その復興事業は高く評価されている。とくに、狭軌だった近鉄名古屋線を大阪線と同じ標準軌で再建したことで、大阪・名古屋の直通運転が可能となった。
また、大規模産業は、世界最新鋭の工場建設を進めることで、高度経済成長の原動力となった。たとえば、福井市は戦災と1948年の福井地震のダブルパンチを受けたが、工場を新設して基幹産業である織物工業を迅速に復旧させ、多くの雇用を生んだ熊谷太三郎市長(当時)の優れた再建計画は称賛されている。
神戸市は精彩のない都市になり、人口が減少
それに対して1995年の阪神淡路大震災の復興はお粗末だった。まず、本来なら復興院のようなものをつくって国家事業とすべきだったが、兵庫県などが地方自治の本旨に従えと主張し、自分たちの権限にこだわったのは馬鹿げたことだった。現在は権限代行制度があり、本来は都道府県の仕事でも国に直轄でやってもらえるので活用すべきだ。
また、後藤田正晴氏が中心となって、「復旧は援助するが、もとより立派なものは地元の負担で」といった制限をしたため、神戸港を国際的に通用するハブ港湾とすることができず、韓国・釜山にその地位を奪われることになった。
そうした結果、神戸市は国際化の時代にふさわしい伝統を持っていたにもかかわらず、震災の前と比べてかえって精彩のない都市になり、2023年に22年ぶりに150万人を下回るなど人口が減っている。
東日本大震災の復興では、過去の反省もあって改善したところもある。阪神淡路大震災を神戸大学教授として経験した五百旗頭眞氏(当時防衛大学校長)が復興構想会議の議長となり「単なる復旧ではなく、未来に向けた『創造的復興』を目指していくことが重要である」としたし、震災復興税が導入されて財源が確保された。