将軍なのに謙虚すぎて家臣たちも困っていたか
また、ある年に火災が起こった際には、家治は「政がうまくいっているときは、気候が穏やかで五穀が実り、民衆は苦難を免れるという。しかし、こうも火災が打ち続くのは、私のせいなのではないか。政治が良くないので、天が災害を為すのではないか。私のどのような所が至らないか。また、民衆の憂いとなるような政治はないか。そのようなことがあれば、すぐに教えてくれ」と周りの者に尋ねたとのこと。
すると、ある者は「民衆は太平の世を楽しんでおります」と答えます。しかし、家治はそれで納得せず「おもねらず、直言せよ」と3度まで下問したそうです。が、返答は「申しべきことなし」というもの。家治はその返答に不興だったとのこと。この逸話からも、家治の謙虚さや民衆を思う慈悲が分かるかと思います。
さて、家治は田沼意次を重用したことで知られています。田沼意次は、側用人と老中を務め、幕政を主導、「田沼時代」を築いたとして史上有名です。家治はその意次の陰に隠れ、意次は威勢を示していたという評価は冒頭で見たとおり。しかし、『徳川実紀』はそのような見解は「あやまり」(誤り)と否定しています。意次は常に家治の英明を恐れていたというのです。
老中筆頭に抜擢した田沼意次との本当の関係は?
あるとき、江戸城の近くで大火がありました。しかし、意次はすぐに出仕せず、遅れてしまったのです。家治は「なぜ遅れたのか」と意次を問い詰めたといいます。意次は「拙者の屋敷の近くに火が迫っていましたので、その対策のため手間取りました」と言上します。意次はこう答えれば、将軍は「そうか、それなら仕方ない」と言ってくれるものと思ったかもしれません。
だが、家治は違いました。「わが城を大事とするか。それともお前の屋敷を大事と思うのか」となおも意次を追及したのです。意次はそれに返答もできず、恐懼し、汗を拭いながら、退出するしかなかったといいます。このようなことが一度ならず、何度かあったようです。意次に圧倒されるどころか、家治が意次をたじたじにしていたと言えます。堂々とした将軍の振る舞いと言えましょう。威厳もあったのです。
在日オランダ商館長イサーク・ティチングが家治と江戸で謁見するくだりがドラマで描かれますが、ティチングは家治のことを「家治は名君の評判をほしいままにしている」(ティチング『日本風俗図誌』雄松堂書店、1970年)と記しています。
指導者としての責任感、慈悲もあり、言うべきことは言い、威厳のある家治。家治とその正室・倫子の夫婦仲は良好だったと伝えられますが、これまで見てきたようなさまざまな逸話を見るに、それもまた当然のように感じられます。倫子は明和8年(1771)、34歳の若さで、夫よりもかなり早くに亡くなります(家治は1786年に死去)。しかし、人格者である良き夫と出会えて、幸せだったかもしれません。