兼家が円融天皇を退位させた可能性
しかし、病気だった兼通がまもなく死去すると、いったんは自宅に引きこもっていた兼家は、天元元年(978)6月から出仕するようになり、8月には円融天皇の後宮に詮子を入内させ、10月には右大臣に任ぜられるなど、ようやく権力を握れる可能性がめぐってきた。
とはいえ、この時点で兼家はすでに50歳。権力奪取に向けて残された時間を考えると、焦りがあったものと思われる。
それから2年、天元3年(980)6月1日、詮子が円融天皇の唯一の子となる懐仁親王を産んだ(のちの一条天皇)。この時点で52歳だった兼家は右大臣。57歳で関白太政大臣の藤原頼忠、61歳で左大臣の源雅信に次ぐ、朝廷における3番目の地位にあったが、懐仁親王が将来、即位できたなら、外祖父として権力を握れる可能性が出てきた。
そして永観2年(984)8月27日、ドラマで描かれたように円融天皇が退位すると、東宮だった師貞親王が即位して、花山天皇になった。同時に、懐仁親王が東宮になっている。
むろん、円融天皇の退位については、食事に毒を盛ったかどうかはともかくとして、兼家と対立したことが原因であったと指摘されている。
また、倉本一宏氏は「円融は譲位と引き替えに懐仁親王を立太子させ、一代限りという情況にピリオドを打ったという側面も考えられる」と記す(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。
つまり、退位せざるを得ないかわりに、自分の息子を東宮に押し込んだわけだが、それが兼家の孫なのだから、兼家にとっては幸いだった。
天皇を騙して出家させる
しかし、花山天皇になっても、相変わらず頼忠が関白のままだった。兼家にすれば、頼忠の娘や、兼家の異母弟の為光の娘が、花山天皇の皇子を産んだらどうなるかと、気が気ではなかっただろう。しかも、花山天皇は政治にも積極的だった。
寛和2年(986)6月23日、いよいよそのときが来た。
花山天皇は藤原為光の娘の忯子を見初めて入内してほしいと懇願し、忯子は女御として宮中に入る。めでたく懐妊するが、すぐに死去してしまう。嘆き悲しむ天皇は、出家したいと口にする。
ここで兼家が動く。三男(嫡系では次男)の道兼を使い、彼から天皇に「共に出家しましょう」と持ちかけさせたのだ。
清涼殿を出た花山天皇は、道兼が同乗する車に乗せられて東山の元慶寺に連れていかれ、そこで出家させられたのである。
その前に、三種の神器などは東宮懐仁親王に献上され、兼家は内裏の門を固めて、東宮に皇位を譲る儀式を断行。こうして兼家の孫の懐仁親王がわずか7歳で即位し、一条天皇となった。
兼家は100年以上前の藤原良房以来、2人目の外祖父摂政となって、念願の政権を手にする。すでに58歳の兼家にとっては、政権が転がり込んでくるのを待つ余裕はなかったに違いない。
クーデターを起こさないかぎり、政権を奪取できないと判断したのだろう。その結果、人並み以上に「偉くなりたがって」いた兼家は、人生の目標を達成したのである。