「帝の食事に薬を入れさせろ」
さて、「光る君へ」では現在、道長の父である藤原兼家(段田安則)が、出世のためになりふり構わぬ行動に走っている。
第2回「めぐりあい」では、兼家は次男の道兼(玉置玲央)に「そなたは蔵人で帝(円融天皇)のお側近くに仕える身。配膳の女房を手なずけて帝の食事に薬を入れさせろ。お命を取ってはならぬ。お加減をいささか悪くされればいい。お気が弱って退位を望まれれば」と命じた。
円融天皇(坂東巳之助)を退位させ、天皇の外孫として権力を振るえる立場を近寄せよう、というのである。むろん、毒を盛った云々は脚本家の創作だが、出世のためにはそれほど手段を選ばなかった、という当時の状況が描かれている。
そして、兼家がねらったとおりに、円融天皇が退位して花山天皇(本郷奏多)が即位すると、第4回「五節の舞姫」で兼家は3人の息子、道隆(井浦新)、道兼、道長を前にして「次の帝をどうやって素早く退位させるか。それが難しいところだ。お前たちも知恵を絞れ」と発破をかけた。
兼家は退位させられた円融天皇の後宮に娘の詮子を送り、懐仁親王を生ませていた。この親王が天皇になれば、兼家は天皇の外祖父として摂政に就任するなど権力を握れる。円融天皇を退位させたのも、次の花山天皇を早く退位させたいのも、すべては自分の孫である懐仁親王を即位させたいがため、という話なのである。
兄との出世レースに負ける
ここからは歴史上の兼家の軌跡をたどってみたい。延長7年(929)に、正二位右大臣まで上った藤原師輔の三男として生まれ、道長が生まれた康保3年(966)の時点では、38歳で従四位下左京大夫と、まだ公卿にはなっていなかった。伊尹(これただ/これまさ)、兼通という二人の兄がいたため、出世はさほど容易ではなかったのだ。
それでも安奈2年(969)には、次兄の兼通を追い越して中納言に、続いて天禄3年(972)には大納言に昇進している。とはいえ、長兄の伊尹は正二位太政大臣だから遠くおよばなかった。
そして同年10月、伊尹が病気のために辞表を提出すると、兼通が権中納言、内覧になってしまう。内覧とは、太政官が天皇に上げた文書や天皇が下す文書を事前に内覧する役のことで、実質的な仕事内容は関白と変わらない。
さらに11月、伊尹が死去すると、兼通は内大臣に出世。天延2年(974)には関白に就任するとともに、正二位太政大臣になって、政権をすっかり握ってしまった。
その後は、兼家は兄の兼通からの牽制を受け続ける。兄と弟の関係は、険悪そのものだったようだ。
兼家は安和元年(968)、長女の超子を冷泉天皇の後宮に入内させ、超子は皇子を産んでいた(のちの三条天皇)。それだけに兄の兼通は、弟の兼家が外戚として権力を握るのを恐れて、貞元2年(977)、従弟(師輔の兄であった実頼の息子)の藤原頼忠に関白を譲り、兼家を正四位下の治部卿に左遷したのである。