頭中将・藤原実資の日記に記された祭事のいきさつ

藤原実資の日記『小右記』によると、2月10日、円融えんゆう法皇のもとに実資が参ったところ、日ごろ一条天皇の夢見が良くないとの仰せなので、「尊勝御修法そんしょうみしほ」「焰魔天供えんまてんく」「代厄御祭だいやくぎょさい」の執行を奏上した。そして翌日の11日には、天台座主の尋禅による尊勝御修法(尊勝仏を本尊として、滅罪・除病などを目的に修す)は執行されたが、予定されていた焰魔天供、代厄御祭は行われず、その代わりに晴明による「泰山府君祭」が実修されたと記されている。

つまり晴明は、密教の焰魔天供、陰陽道の代厄御祭に代えて、あらたな泰山府君祭なるものを天皇のために行ったというわけだ。それは晴明による独自の祭祀法であったといえよう。とはいえ、泰山府君祭は、まったくゼロから作られたわけではない。そのもとになっているのは「七献上章祭しちけんじょうしょうさい」「本命祭ほんみょうさい」といった、道教系の祭祀である。

「一条天皇像」(部分)、江戸時代(画像=真正極楽寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

このように泰山府君祭は、その起源から考えても道教系の要素が強いのだが、これに密教系の焰魔天供を習合させたところにこそ、晴明の発明があったようだ。泰山府君祭は、密教修法、仏書の影響抜きにはありえないという(陰陽道研究家・小坂眞二氏による)。道教系だけではなく密教の教えをも取り込むことで、最強の泰山府君祭を作り出したのである。晴明が密教の「焰魔天供」に対抗するかたちで泰山府君祭を行った理由は、そこにあったのだろう。

道教や密教の教えを取り込んで自分の地位を上げた

晴明は、この密教の教説から、直接的に除病、延命を願う相手は「泰山府君」にあることを見いだし、泰山府君そのものを主神とした「泰山府君祭」を一条天皇のために執行したのではないだろうか。延命祈願ならば、泰山府君そのものに直接コンタクトをとるほうが効果がある、という理屈である。そして泰山府君とのコンタクトを可能とするのは、密教僧ではなく「陰陽師」たる自分にあると、晴明は主張したのだろう。史料の背後にはこうした事情が読み取れるのである。

永祚元年の泰山府君祭の執行以降、晴明による祭祀実修の様子は、長保ちょうほう4年(1002)、藤原行成のために行った記録から見られる。

平安後期にあっては、陰陽師とともに密教の僧侶たちも競って「星祭り」を執行した。そしてその星祭りの目的は、ほとんど冥府、冥道の諸神への修法と同じものであったという(仏教史学者・速水侑氏による)。密教には「星曼荼羅ほしまんだら」も作られるのである。