「東大をやめよう」と覚悟するがその後も12年間勤める

この記事を読んだ牧野は、自分でも思い当たる節もあり、そろそろ大学をやめなければならないと覚悟し、「長く通した我儘気儘最早や年貢の納め時」と負け惜しみの都々逸を口ずさんだ(『植物集説』下巻)という。

しかし結果的にはこの記事は誤報であり、牧野は東大を追い出されることもなく、その後、昭和14年、77歳のときまで講師を務めることになったのである。当時は定年制がなかった時代であるが、77歳まで現役でいられるというのは、「冷遇」ではなく「優遇」といえなくもない。それだけズボラといわれながらも「余人をもって代え難し」という能力が、牧野には認められていたからに違いない。

古写真『東京帝国大学』1903~1904年ごろ(写真=PD US/Wikimedia Commons

東大における牧野の現役時代に、学生として牧野の講義を聞いた植物学者が何人か、その印象を記している(『植物と自然』1981臨時増刊)。

東大生からは「牧野先生の講義は楽しい」と好評だった

俵浩三『牧野植物図鑑の謎』(ちくま文庫)

それによると、「先生は時間に頓着なく来られておしゃべりを始める」(木村陽二郎)、「先生は適当の時間に来られる。決まっていない。時にはお菓子を持って、時には菜っ葉を引っさげて、登場されるのである。教室はたちまち座談室となり、それからそれへと話がはずむ。……一定の規律はないけれども、まことに滋味あふれる授業であったことを感謝している」(前川文夫)、「先生の講義は型式にとらわれることなく、きわめて自由で、植物に関する幅広い話題にふれ、先生一流のユーモアを交え、時には川柳や都々逸まで飛び出すという誠に楽しいものであった」(加崎英男)、といった調子である。

この思い出から浮かび上がるのは、型にはまらず、時間にとらわれず、ざっくばらんでありながら、心に残る名講義だった、ということである。いわば熟練した職人の名人芸である。職人気質の人は、自らの内発的エネルギーが湧きだすときは時間もかまわず徹底してよい仕事をするが、気が向かなければ、いくら「えらい人」から外発的エネルギーを与えられても、さっぱりエンジンがかからないのである。

しかし、これを大学のカリキュラム規定とか、近代社会の枠組みという立場から見れば、「学生や教授に迷惑を懸けることは一度や二度ならず」、ズボラということになってしまう。