日本人の学力は「明らかに無駄になっている」

これらの歴史を振り返ると、話す力の育成に通じうる取り組みがなかなか継続せず批判される背景にあるものが見えてきます。それは学科の点数ばかりを重視する「学力」への執着です。しかしこの学力主義はそれに見合った成果を残せているのでしょうか?

日本は、第1章で言及した子どもたちの学習到達度もさることながら、成人の学力も読解力、数的思考力ともに世界一の水準です。

しかしながら、この日本人のスキルの高さはあいにく経済の活力を生み出しておらず、経済格差を縮めることにも役立っていないという残念な結果になっています。この状況を受けて、教育社会学者である本田由紀教授は「日本の人々の著しく高い一般的スキルは、明らかに無駄になっている」と説きます[※5]

図表1のグラフは、横軸にPIAAC(国際成人力調査)の読解力スコアを、縦軸に所得格差を示す「ジニ係数」を置いたものです[※6]。これは値が大きいほど不平等の度合いが高いことを示しています。基本的には、読解力の平均値が高い国ほどジニ係数は低くグラフは右下がりになっていますが、そのなかで日本は、読解力が高いにもかかわらずジニ係数が高いという外れ値にあることがわかります。つまり、読解力の高さが経済格差の緩和につながっていないのです。

出典=本田由紀「教育と労働の関係をめぐる社会間の差異―『資本主義の多様性』論に基づく考察と検証―」『「教育学研究」第83巻 第2号』より筆者作成

偏差値や入試結果に支えられた「学力への執着」

縦軸に「一人当たりGDP」を置いている図表2でも、日本は読解力がトップであるにもかかわらず、一人当たりGDPは多くの国よりも低い状況が見て取れます[※7]

出典=本田由紀「教育と労働の関係をめぐる社会間の差異―『資本主義の多様性』論に基づく考察と検証―」『「教育学研究」第83巻 第2号』より筆者作成

全国的に小学6年生と中学3年生を対象におこなわれる学力テストは、先生方にとって「良い成績を残さねば」というプレッシャーになっています。また、学校の偏差値や国公立大学に受かった人数のような入試結果は、あたかも学校にとっての最大の評価基準であるかのようにみなされています。これらの要因によって、「学力」への執着は「支えられている」ように私には思えます。そもそも「偏差値」という概念は日本特有のものであるという話は、海外の教員と話していて驚くことのひとつです。

このような風潮を思えば、「子どもの話す力を鍛える暇があったら、ひとつでも多くの公式を覚えさせるほうが得策」という声が先生方からあがるのも不思議ではありません。