勝頼は37歳で非業の死を遂げ、名門の武田家は滅んだ

やがて勝頼は、向かってくる敵を次々に斬り伏せ、壮烈な最期を遂げたという。勝頼の最期については、戦死したという記録(『軍鑑』『三河後風土記』『当代記』など)と、自刃したという記録(『甲乱記』『理慶尼記』『三河物語』など)があり、定まっていない。

なお、『理慶尼記』に、勝頼の辞世の句が記録されている。

平山優『武田三代』(PHP新書)

「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端」

勝頼は享年37であった。

北条夫人、信勝、そして勝頼が相次いで死ぬと、小宮山内膳が「大将ははや夫婦ともに自害なされた。誰のために戦っているのか」と呼ばわった。土屋昌恒や安西伊賀守らはこれ聞くと「人を斬るのが面白くて、大将のお供に付いていかなかったのは残念である。ではもう一度最期のひと戦をして腹を切ろう」と言いながら、大軍の中に切っ先を揃えて突入し、獅子奮迅の働きをした。しかし多勢に無勢で、彼らはみな討たれてしまったという(『甲乱記』)。

侍女たちは次々に自害し、男たちは奮戦して討ち死に

なお『理慶尼記』によると、土屋昌恒、金丸助六郎、秋山源三の三兄弟は、最後は互いに差し違えて死んだと記している。正午まで、武田方で生き残っている者は一人もいなかった。

最後の戦いが始まってまもなく、侍女たちは次々に自害しており、男たちだけが、後顧の憂いなく戦い抜き、散華していった。勝頼に殉じた人々について、確実な記録は残されていない。その人数や姓名は、記録によってまちまちである。現在、伝えられる殉死者は36人であり、上膳、侍女は16人だったというが、これ以上の詳細は判然としない。ちなみに『信長公記』は、殉死した侍分41名、上膳・侍女は50人、『軍鑑』は、家臣は44人だったとするが、その詳細は明らかにならない。

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