小山田信茂に裏切られ家臣たちは次々に逃亡していく

3月3日払暁、武田勝頼は、自らの手で新府城に火を放ち、都留郡へと向かった。城には多数の人質がいたが、彼らは建物に閉じ込められ、焼き殺されたという(『信長公記』)。

3月10日夕刻、駒飼で待機していた勝頼は信茂が迎えにこないので、不審に思い、迎えを寄越すよう催促の使者として小山田八左衛門と武田信堯を派遣したが戻らず、さらに使者として家臣を笹子峠に向かわせたところ、多くの武者が陣取って行く手を塞ぎ、都留郡に入ることを拒み、鉄砲を撃ちかけてきたという。小山田信茂の変心が明らかになったのである。

この情報は、たちまち駒飼に在留する家臣らに伝わり、大騒ぎになった。勝頼を見限った者たちが、駒飼の各所に放火して立ち退き、騒ぎはいっそう大きくなった(『理慶尼乃記』)。これでさらに多くの家臣が逃亡してしまい、勝頼の側には、わずかに43人が残るだけになったという(『軍鑑』)。

芳宗『撰雪六六談 天目山 武田勝頼』
図版=芳宗『撰雪六六談 天目山 武田勝頼』、秋山武右衛門、明治26. 国立国会図書館デジタルコレクション

小山田信茂にそむかれた勝頼は、完全に進退窮まった。勝頼主従は、11日朝、駒飼を発ち、鶴瀬を経てやむなく天目山棲雲寺を目指し、日川渓谷に入った。勝頼主従は、田野たのにたどり着き、さらに山道を進もうとしたが、これを知った天目山の地下人たちや、変心した甘利左衛門尉・大熊備前守・秋山摂津守が手を携えて、勝頼主従に鉄砲を撃ちかけ、入山を拒んだ。辻弥兵衛も、近隣の百姓らを率いて、勝頼の命をつけ狙ったという。

天目山の裾野にある田野で滅亡することを覚悟

かくて勝頼主従は、田野に引き返さざるを得ず、ここで立ち往生してしまったのである。この時、勝頼主従を追いかけて来た人物がいた。武田譜代小宮山内膳である。彼は跡部勝資・長坂釣閑斎・秋山摂津守らと不仲であったため、勝頼の不興を買い、逼塞ひっそくを命じられていた。内膳は、家老の土屋昌恒に取次を乞い、三代の御恩を果たすべく供をしたいと申し出た。これには、土屋や秋山紀伊守らも感動し落涙した。

内膳は、土屋昌恒の許可を得て、伴ってきた生母と妻子を、弟に託し、落ち延びさせた。そして小宮山は、この時、自分を陥れた秋山摂津守や長坂釣閑斎らが、すでに逃亡していたことを知り、悲嘆したという。

勝頼は、田野で滅亡することを覚悟した。そこで、これまで扈従こじゅうしてきた麟岳りんがく和尚(武田逍遙軒信綱の子、勝頼の従兄弟)と、北条夫人に落ち延びるようすすめた。だが麟岳も北条夫人も毅然きぜんとこれを断り、ともに冥土黄泉までも同道すると誓ったという。勝頼らは、別れの盃を酌み交わし、最後の準備に入った。