16歳で初陣だった嫡男・信勝が討ち死にを遂げる
まもなく、遂に滝川一益の軍勢が姿を現した。土屋昌恒らが、弓矢を携え、迎撃に向かった。『三河物語』によると、この時に跡部勝資が馬に乗って逃げ去ろうとしたといい、怒った土屋に射落とされ、落馬したところを敵に討たれたという。
土屋は、矢束を解き、細い橋を頼りに、日川を越え攻め寄せてくる敵を、次々に射落とした。矢が尽きると、土屋は太刀を振りかぶって、敵2、300人が控えている真ん中に切り込んだ。土屋の後に安西伊賀守・小山田式部丞・秋山源三・小宮山内膳らが続き、小勢ながら死に物狂いで戦ったので、織田方は切り立てられ、甚大な被害を受けたという。
だが、敵は多勢で、次第に追い立てられ、勝頼の近くにまで敵兵が現れ始めた。武田信勝は、当時16歳であったが、父勝頼と並んで敵を切って廻り、その姿は勇猛さと華麗さは周囲の目をひくほどであったという。だが信勝の股に、鉄砲の流れ弾があたった。信勝は、父勝頼に今生の別れを告げると、麟岳和尚とともに敵中に切り込んだ。やがて信勝と麟岳は、脇指を抜き持つと、刺し違えて息絶えた。
信勝の辞世の句は「あだに見よ 誰もあらしの 桜花 咲ちるほどは 春の夜の夢」と伝えられている(『理慶尼記』)。なお、記録を見る限り、信勝はこれが敵と刃を交えた初陣と見られ、彼にとって田野合戦が最初で最後の戦場となったと推察される。
19歳の北条夫人は生き延びることを拒否し殉死を選んだ
勝頼は、敵との死闘が始まると、安西伊賀守・秋山紀伊守をして、北条夫人に小田原へ帰り、自分の菩提を弔ってくれるよう伝えた。だが北条夫人は頑として聴かず、小田原から付いてきた侍臣早野内匠助・斂持但馬守・清六左衛門・同又七郎(六左衛門の弟)を召し寄せ、ここから脱出して小田原の実家に文と遺髪を届けるよう命じた。
彼らは、拒んだが、北条夫人の強い下命に抗えず、涙ながらに承知した。北条夫人は、髪を少し切り、文に添えて渡したといい、「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思に消る 露の玉の緒」との辞世の句を詠んだという。
まもなく、北条夫人の近くにも、鉄砲の弾が着弾するようになると、彼女は法華経の第五巻を静かに読経した後、自刃して果てた。上膳や侍女たちもこれに続いた(『甲乱記』『理慶尼記』)。彼女の介錯は、勝頼自らつとめたといい、彼は北条夫人の遺骸を抱いたまま、しばらく言葉がなかったという。北条夫人は、享年19であった。