「おまえのことは一生許さん」と何度も言われた
さて、「裏切られる」話をしたら、当然「裏切る」ほうの話もしなければなりません。私は、「生きている以上は誰のことも裏切らずにいることは難しい」と考えています。
実際、私は自分の人生で、「おまえのことは一生許さん」と何度も言われてきました。最初に言われたのは、小学校6年生のときです。
私は野球チームに入っていました。チームには6年生の友だちがいたのですが、だいぶ弱いチームでした。その地区には、9連覇している強豪のチームがありました。
私がキャプテンになったとき、どうしても優勝したくて、レギュラーを替えました。キャプテンとしてみんなを束ねて、私が監督の権限を得たのです。そして、上手な5年生のふたりをレギュラーにして、6年生の友だちをレギュラーから外しました。
結果的に、チームは優勝しました。いま思えば、しょせん地区大会でそんなに必死になって優勝しなくてもよかったかもしれません。でも、私はどうしても優勝したかったんです。
その6年生の子の親が家に私を説得しに来ました。
「卒業記念やないか、友だちやないか」
でも私は、
「友だちですけども、下手やから」
と言いきったのです。
「情を取るか実を取るか」の選択でした。「地区優勝する」という点では、私の判断は間違っていなかったと思います。でも同時に、その友だちに対して、本当にひどいことをしたとも感じています。「目的は手段を正当化しない」と、私はよくまわりの人から諫められます。この場合もそうです。あのとき、きっとふたりは私に裏切られたと思ったことでしょう。
誰も裏切らずに人生を送ることなどできない
また、政治の世界はそのときどきで状況が変わるので、裏切りが横行します。ある意味、いちばん人間味のある場所といってもいいかもしれません。だから私はそういう政治の世界が好きなんです。人間のどろどろした裏切りや、騙し合いを愛おしいくらいに思っています。
政治の世界や、もしかしたら企業でも、前例にならわずに状況に応じた判断をすることは「裏切り」と見なされます。以前からの関係の継続を期待していた者は、関係を切られれば「裏切り」と感じるでしょう。
たとえば予算編成を変えて、予算を減額する事業が出てくる。するとその事業に関係する人たちは「裏切られた」と感じるでしょう。
明石市では私が議会の反対を押し切って市長の権限で予算編成を変えたので、予算を減額された事業の方は「行政から」というよりは「泉から裏切られた」と思われていると思います。でも「子ども政策にお金をまわす」という必要な改革を思えば、仕方のないことです。
私たちは裏切られる一方で、自分では気づかずに、結果的に相手を裏切ってしまっていることもあると思います。
「裏切りは許さん。自分も裏切りは絶対にしない」
と言っている人でも、実際に誰のことも裏切らないで人生を送るのは難しい、そんな気がします。