三成は大野治長らによる家康暗殺計画を知らせて命を救った

豊臣公儀ではその後もトラブルが重なる。

同年秋、前田利家の跡を継いだ加賀の前田利長に謀反の噂が立ったのだ。

家康は利長が挙兵しないよう慎重に動く。

その際に家臣の柴田左近を佐和山城に派遣して、三成に問題解決への協力を要請した。かくして同年11月、家康の指示で、大谷吉継の養子・吉治と石田三成の内衆うちしゅ1000余が越前に配備された。その後、噂は誤解であることが判明。全ては沙汰止みとなり、大きな紛争にはならなかった。関ヶ原合戦が起こるのは翌年の9月だが、この頃まで両者は不仲でも何でもなかったようだ。

ちなみに、この少し前、大野治長、浅野長政らによる家康暗殺計画があった。しかし、これを事前に察知した三成が「ひそかに書面で〔このことを〕家康に知らせた」ので、暗殺の計画は未遂に終わった。

ドラマなど創作物の三成は、家康暗殺を企てることも多いが、事実は正反対で、三成は家康を救っているのである。

ここまで三成に、打倒家康の一念など見られない。

そこにあるのは、個人的な好悪ではなく、先の私婚事件で三成が語った言葉から印象されるように、「天下」が私物化されることへの警戒心であり、つまりは私よりも公を重んじる公正無私の気持ちであっただろう。天下国家を語って、私欲の薄い人物で、それらを論理的に思考して、言葉として発することのできる政治家であり、戦略家であったのではないだろうか。

三成よりも野心家だったのは西軍大将の毛利輝元

ただ、三成は隠居の身としてその生涯を終えるつもりはなかったようだ。

奉行職を退いてからというもの、豊臣公儀と家康は苦闘を重ねている。大老筆頭・家康の暗殺未遂事件、前田利長の討伐騒動、そして今度は会津の大老・上杉景勝に謀反の噂が立っていた。すべて家康が単独で対処している。自分が現職であったなら、これらの混乱をもう少し緩和できたかもしれない。

自分にもっと力があれば――と考えるのは、権勢欲なのかもしれないが、そうだとしても当時の健康的な武士ならば、誰にでも備わっている当たり前の感覚だったはずだ。

政治問題が連続する中、安芸の大名で、五大老のひとりである毛利輝元は、家康を排して大老筆頭になりたいと思っていた。輝元こそは、司馬遼太郎の小説『関ケ原』における家康ですら霞んでしまうほどの野心家だった。

家康に遺恨や不満のある者たちは、ここで輝元と結びついていく。その中に、大谷吉継もいた。その吉継が三成に、自分たちの党派に加わるよう声をかけた。出陣途中、わざわざ自分から三成の居城に赴き、密談したのである。このとき家康は会津対策のため、関東に出向いていた。吉継はこれに従軍する道のりで、三成に挙兵を誘ったのである。

毛利輝元画像(写真=毛利博物館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons