家康の仕事には「あっぱれ」
家康は福の訴えを受け入れた。福の直訴は一次資料に見られるわけではなく、後世の創作だとする向きもあるが、いずれにせよ、家康はもともと、長子が相続することを理想としていた。それはひとえに、徳川家とその政権の存続のために、内部の争いを避ける目的であった。すなわち、家康の人生最後の懸案事項が、秀忠の世継ぎを竹千代に定める、ということだったのである。
秀忠の世嗣が最終的に竹千代と決まったのは、元和元年(1615)の末ごろ、まさに翌年1月に、家康が倒れる直前だった。12月22日付で以心崇伝が板倉勝重に宛てた書状によれば、家康が元和2年(1616)5月に上洛して9月まで京都にとどまり、その時期に竹千代が京都で元服することが定められたという。だが、同じく崇伝が勝重に宛てた正月13日付の書状では、江戸で元服することに変更されている。
その直後に家康は倒れ、回復することはなった。このため、竹千代が元服して家光と名乗るのは、4年遅れの元和6年(1620)9月になった。
しかし、最後の懸案事項にまでしっかり道筋をつけて家康は逝った。あっぱれというほかない。