行動を高く評価したドイツの哲学者
さて、理想や神や絶対について考えてみよう。あなたが行動を起こせない理由は、もしかするとそこにあるのかもしれない。
「それはかつてあったのでも、いつかあるであろう、でもない。なぜなら『ある』は、いま、ここに一挙に、全体が、一つの、融合凝結体としてあるわけだからである」(パルメニデス、納富信留訳『西洋哲学史I』講談社所収)
一方、ヘーゲルは、行動を高く評価した哲学者のひとりである。人間の根底にある欲望、承認欲求や世界における自分の価値を客観的に捉えたいという気持ちを満たすための行為こそが人間の営みだと彼は考えた。
ところで、ヘーゲルは、絶対神を「精神」「理性」という言葉で表現する。これは不動のものではなく、「動く」ものであり、「歴史」と同様、移り変わっていくものである。彼にとって、歴史とは文明の進化のなかで神が徐々にその姿を現し、その存在を認識するに至る過程なのだ。
哲学があなたにもたらす“ある力”
〈ヘーゲルにおける歴史と神の進化〉
「特定の民族精神が世界史のあゆみのなかでは一つの個体にすぎない、ということです。というのも、世界史とは、精神の神々しい絶対の過程を、最高の形態において表現するものであり、精神は、一つ一つの段階を経ていくなかで、真理と自己意識を獲得していくからです。各段階には、それぞれに世界史上の民族精神の形態が対応し、そこには民族の共同生活、国家体制、芸術、宗教、学問のありかたがしめされます」(ヘーゲル『歴史哲学講義』長谷川宏訳、岩波文庫)
こうして神の存在が明確になれば、人間の行動は、もはや単なる騒乱ではなくなる。行為の価値は見直され、ある種の業績とみなされるようになる。ここでいう業績とは、人間が、行動することによって不安を軽減させながら、神に近づこうとする過程である。行動、特に「善行」に価値をおくキリスト教では、神は創造主であり、天地を創造するために、「不動」の状態を脱し、わずかとはいえ行動せねばならなかった。
神、絶対、天上の法則、呼び方はさまざまだが、そうしたものを考えたところで、ものぐさが治るわけではない(そもそも哲学の目的はそこではない)。
でも、神や絶対の真理が形而上学的なものだということが、よりはっきりと認識できたはずだ。哲学はあなたに行動する力をもたらしてくれる可能性だってあるのである。