まず一歩踏み出すことが大事

一方、それに取り組むことが、あなたにとって、人間的な能力、知性や感性、想像力を伸ばすことが可能になるような分野があるなら、それがあなたの適性だと言える。自分とその分野の相性がいいということだ。

どんな出会いにも言えることだが(そしてまた、だからこそ出会いは美しいのだが)、人はあらかじめ、その出会いが自分の人生にどんな影響をおよぼすかを予想することはできない。そこに踏み込んでみないことには、それが「本当に自分がやりたいこと」に通じる道なのかを知ることができない。それでいいのだ。

最後にもうひとつ。「あなたが本当にやりたいこと」に少なくとも何らかの意味があるのかという問題だ。

それをやり遂げるには、「本質」つまり天性が必要かもしれない。サルトルなら、「本質」には意味がないというだろう。あなたは「実存」であって、「本質」ではない。実存は本質に先行する。それなら、あなたが何を本当にやりたいと思おうがかまわない。あなたはあれにもこれにもなれるし、自分がこれからすることが「あなた」を定義する。

あなたの悩む気持ちもわかる。進路の選択を間違うかもしれない。もしかすると一年を無駄にしてしまうかもしれない。確かにそうだろう。でも、それがプラスになったかマイナスになったかは、死ぬまで判断することができない。人生は毎日いつだって軌道修正が可能なのだ。死ぬまでずっと。

アリストテレスの友情の定義

「本当の友だちってどうしたらわかりますか」

アリストテレスの友情の定義はきっぱりとしている。友人とはあなたをより良いものにしてくれる人。あなたを成長させてくれる人、その人と出会わなかったら眠ったままになっていただろう部分を目覚めさせてくれる人。アリストテレスが常に求めていたのは、機会を捉え、「可能態」にあるものを「現実態〔訳注:エネルゲイア、実現態と訳されることも多い〕」へと現働化することだった。

アリストテレスの像
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「それぞれのものは、その終極実現態にある場合のほうが、可能態にある場合よりもよりすぐれてその当のものであると言われるからである」(アリストテレス『自然学』内山勝利訳『アリストテレス全集4』岩波書店)

友人もまた、現働化の「機会」のひとつなのである。ここでいう友とは、その友人自身の性格や才能は関係ない。その出会いが、私を現状よりも良い状態に引き上げてくれるかが重要なのだ。より正確に言うなら、友人その人ではなく、その人との関係が私を成長させてくれるかだ。

ユダヤ・キリスト教的な価値観からは意外に思われるかもしれない。友情を道具のように功利で考えることには抵抗があるかもしれない。だが、無欲であることは古代ギリシャにおいて美徳ではなかった。人生は大きな可能性を秘めたものであり、その可能性を最大限に活かす方法はどんなものであれ肯定的に捉えられていた。