藤原道長の絶頂期
娘の出産にテンションがあがっていることがわかる。当時、出産は今の時代以上に命がけだった。難産や産後の肥立ちが悪く、定子のように亡くなる女性も多かったからだ。だから万が一のさい成仏できるよう、形式的に出家することが多い。
彰子の場合も少しだけ髪の毛を削いでその体裁をとった。これを見た紫式部は「くれまどひたる心地に、こはいかなることとあさましう悲しきに」と、心配のあまり悲嘆に暮れたことを日記に書き付けている。
実際、かなりの難産だったが、彰子は無事に出産した。だが、産婦はくたくたになっているのに、出産直後から毎日のようにさまざまな祝い事や儀式が立て続けに執りおこなわれた。これでは産婦は、たまらないだろう。紫式部も彰子が憔悴している様子を描写している。
一方、道長は男児が誕生して外戚になれるということで、大はしゃぎである。昼も夜も関係なく赤子がいる部屋にやってきては、乳母の懐から孫を抱き取ってしまう。夜中や明け方にもくるので、寝ていた乳母が仰天することもしばしばだった。
あるときなど赤子が道長の衣におしっこをひっかけたが、それでも道長は嬉しそうに衣を脱ぎ、几帳の後ろで衣をあぶって乾かすよう女房に命じたという。親馬鹿ならぬ孫馬鹿である。
天皇への土産は源氏物語
生後50日のお祝いも無事に済み、いよいよ彰子が内裏に戻る日が近づいてくる。女房たちがその準備に明け暮れていた頃、彰子が紫式部に「おまえには、御冊子(本)づくりを手伝ってもらいたい」と言ってきたのである。
じつは一条天皇へのお土産として素晴らしい紙や墨を用いた豪華な物語本をつくろうというのだ。その物語というのはもちろん、『源氏物語』だった。
原本は、なんと道長が紫式部の部屋から盗んだものだった。じつは紫式部は、自宅から『源氏物語』の草稿を持ってきて部屋(局)に隠し置いていた。推敲や校正した原稿は人に貸したり、失くしたりしたが、草稿だけは大切に保管していたのだ。
ところが、である。道長が紫式部の留守中に勝手に部屋に入り込んで、その草稿を持ち出して次女の姸子にあげてしまったのである。プライバシーもなにもあったものではない。
今回の製本は、この最初の原稿がもとになっているので、「拙い作品だと人にそしられるのではないか」とヒヤヒヤしながら紫式部は製本にたずさわった。