注目を集める存在になったワケ

枕草子』には、こんなことが書かれている。

「将来に何の望みもなく、家庭に入ってひたすらまじめに生き、偽物の幸せを生きる。そんな人生を送る女を私は軽蔑する。やはり、高い身分の娘は、しばらく宮仕えをさせ、世間の有様をしっかり見聞させるべきだと思う。中には宮仕えする女はよくないと悪口をいう男がいるけど、本当に憎たらしい」

当初、清少納言は先輩の女房たちが物怖じせずに定子やその親族と談笑する様子を憧憬の目をもって眺めていたが、しばらく経つと宮中での仕事にも慣れていき、やがて、20人ほどいる定子の女房衆の中で頭角を現していった。

とくに宮中で彼女を有名にしたのは、よく知られている「香炉峰の雪」の逸話だろう。雪がたいそう降り積もっている日、清少納言ら女房たちは格子(雨戸)をおろしたまま、炭櫃(火鉢)に火をおこして雑談をしていた。

すると、急に定子が「清少納言よ、香炉峰の雪はどんなであろうかの」と語りかけてきたのだ。そこで清少納言はとっさに女官に命じて格子を上げさせ、御簾を巻き上げたのである。中唐の白居易(白楽天)の詩に「香炉峰雪撥簾看(香炉峰の雪はすだれを撥げて看る)」という一節がある。定子がこれに言及しているのだと気づいたので、すぐさま清少納言は御簾を巻き上げたというわけだ。

このように、漢籍や和歌の教養が深く、しかも定子や男性貴族たちの問いかけにアレンジを加えたり、機知をきかせたりして応えるので、定子の父の道隆や兄の伊周にも気に入られるようになっていった。

紫式部との関係

だが、同じく宮仕えをした紫式部は、清少納言が知識をひけらかすことが面白くなかったようで、「大したことがないのに利口ぶっている」と悪口を言っている。

しかし紫式部が宮仕えした時期にはもう清少納言は引退しており、宮中で2人が顔を合わせる機会はなかったといわれている。

土佐光起「紫式部図(部分)」(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ちなみに清少納言の栄達は、生来の負けん気の強さも関係しているように思える。あるとき、清少納言が柱にもたれかかって女房たちと雑談していると、いきなり定子が紙を投げてよこした。それを開けてみると、「思ふべしや、否や。人、第一ならずはいかに(あなたのことを愛してあげようか。でも一番じゃなければだめですか)」と書いてある。

じつはかつて清少納言は、「すべて、人に一に思はれずは、何にかはせむ。ただいみじう、なかなか憎まれ、あしうせられてあらむ。二、三にては、死ぬともあらじ。一にてを、あらむ(すべて人から一番だと思われなければ嫌だし、意味がない。一番になれないのなら、みんなから憎まれたほうがいい。二番や三番になるくらいなら死んだほうがまし。とにかく一番でいたい)」などといっていた。

どうやらこのように、清少納言が日ごろから「オンリーワンではなくナンバーワンになりたい」と豪語していたのを定子がからかったらしい。そんな強気な女性だったから、紫式部も嫌悪感を覚えたのかもしれない。