養母うめの死に目に会えず、養母は執念の言葉を遺した

もう一つ笠置の特徴は、こうと決めたら突き進む一本気な性格にある。

母うめが亡くなったのは、昭和14年(1939)9月11日のことである。その前、東京の公演があり、主要キャストの笠置は代役がおらず、母が危篤きとく状態になっても大阪へ帰ることができなかった。

柏耕一『笠置シヅ子 信念の人生』(河出書房新社)

うめが今日か明日かの命になったときのこと。周囲の者が「大役がついて帰れない」という笠置の電報をうめに見せると、

「そんなら、あの子も東京でどうやらモノになったのやろ。わてはそれを土産にしてあの世に行きまつけど、わてが死に目に逢うてない子を、生みの親の死に目にも逢わせとない。わてが死んだあと、決して母が二人あることを言うておくれやすな」

と、きっぱり言ったそうだ(自伝より)。うめの執念か、はたまたごうだろうか。

笠置は笠置で、これはこれでよかったと思っている。死に目には会えなかったが、生みの親など知らないとシラを切り通せたのだから。

笠置を愛情深い一本気な女性と評した喜劇王エノケン

大戦期前後の国民的な喜劇王のエノケンこと榎本健一は、笠置を評して「生一本きいっぽんの人」と呼び、「舞台と楽屋の裏表がない」と褒めている。

映画「お染久松」(1949年)の笠置シヅ子(右)と榎本健一(左)より

いつでも捨て身で気どりのない笠置のことが、エノケンは好きなのだ。笠置はこうと決めたら、こざかしい真似まねはしない。親を守ると決めれば、自分を捨てても死ぬまで面倒を見る。

弟・八郎のためなら、軍隊を退役したあとのことを考えて、松竹退団の際の退職金すべて、1000円近い金を定期預金にして渡そうとしていた。

笠置は、これまでもそうだが、これからもそうやって生きていくつもりだった。

関連記事
【第1回】笠置シヅ子の養母は赤の他人の子に乳をあげ大阪に引き取った…「ブギの女王」を育てた母の並外れた"義侠心"
笠置シヅ子の実母は母親であることを認めなかった…17歳で自分が養子と知った昭和のスターの壮絶な生い立ち
成人雑誌を燃やされ、自慰を禁じられても、母が大好きだった…元C-C-B関口誠人が語る「宗教2世」の苦しみ
中2で「初めてのセックスはどんな状況か」を考えさせる…日本と全然違うカナダの性教育
「今から行くから待ってろコラ!」電話のあと本当に来社したモンスタークレーマーを撃退した意外なひと言