「少女歌劇の異端児」だった笠置には東京が合っていた
先述した、松竹歌劇ファンの言葉が的外れでないことは、笠置自身も認めていた。「夢や希望」を松竹歌劇に求めていた人たちには、笠置は異質だったのだろう。
笠置本人も「ただ田舎者の向う見ずで、世に出ることばかりを考えていた私に、どうして夢や美がありましょう。最初から私は少女歌劇の異端児だったのかもしれません」と自伝にある。
ともあれ、松竹歌劇団の生活をあと先考えずに送っていた笠置にも、少しずつチャンスが巡ってくるようになった。
昭和12年(1937)春、笠置は東京の国際劇場の「国際大阪踊り」に出演した。このとき笠置は幹部どころの出番で、「羽根扇」を歌った。これが東京の松竹幹部の目に留まったのである。
翌年、笠置は東上することになった。
かわいがっていた義理の弟が23歳で戦死してしまう
ところで、笠置の当時の家庭の状況はどうであったか。
亀井家は、笠置をのぞいて7人の子が生まれたが、末弟の八郎以外みな早逝していた。八郎は昭和12年(1937)当時、19歳になっていた。
家業の風呂屋もその権利を売って、家族はその手持ちの金で生活していたようだ。笠置は、父親の道楽で借金のカタにでもなっていたのではないかと推測している。とはいえ、病弱な母うめをかかえて父子が無職というわけにもいかず、天王寺の東門近くに散髪屋を開業した。そんな状況なので、笠置も月々の手当80円の大半を家に入れていた。笠置はお汁粉屋に入るのさえ、ためらわざるを得なかった。
そうこうするうちに八郎は、満州事変から中日事変へと戦雲が拡大するなか、四国丸亀の師団に入隊することになった。
だが後に太平洋戦争が勃発して、最愛の八郎は昭和16年(1941)12月に、仏領インドシナ(現在のベトナムやその周辺)で戦死してしまった。
八郎から入隊時に「あとは頼む」と託されていたとはいえ、笠置は実質的に一家の大黒柱となる。
笠置シヅ子は抜群に記憶力がいい。彼女の自伝を読むと、それがよくわかる。描写がきわめて細かいのである。会話の細部まで昨日のことのように鮮やかである。まして、自分にとって大事な人の話となれば忘れようがない。
笠置と親しい人によると、笠置は10年前のことでも20年前のことでも期日から時間まで、じつによく覚えているそうである。