絶対権力者だった道長を振った? 妾になった?

その藤原道長が、

「夜もすがら 水鶏くいなよりげに なくなくも まきの戸口に 叩きわびつる」

という歌を詠んだ。自らを水鶏にたとえて、あなたの家の戸を叩き続けたけれども、あなたは開けてくれないという歌である。

藤原道長(画像=「日本国宝展」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

それに対し、紫式部はこんな歌を返した。

「ただならん 戸ばかり叩く 水鶏ゆえ 開けてはいかに くやしからまし」

戸を開けたら悔しい思いをするのではないかと、式部が当時絶対権力者であった道長を跳ねつけたということで、後世の人は非常に高く買う人がいる。

一方、結局は道長のめかけになったという説もあり、平安・鎌倉時代の男性官人に関する一級資料として名高い、洞院公定が14世紀の終わり頃に編纂した系図集『尊卑分脈』などはその説を採っている。

清少納言を下げて、「自分上げ」をする面も

ところが、元禄時代の安藤為章は、『紫家七論』の中で、紫式部は非常に貞淑な女性だったと記している。

この紫式部貞淑説というのは割と根強く唱えられている。明治以後でも芳賀矢一(京大教授・国学院大学学長)は彼女を「貞淑温良」といい、森鴎外は「貞淑謙譲」といい、萩野由之(東大教授)は「温厚謹慎」という。久保田辰彦はその『日本女性史』の中で、彼女の『新千載集』の和歌のはし書きから判断して「比較的貞節の正しかった女性であるとは認めてよいが、完全無欠で後世の淑女の亀鑑きかんとするわけにはいかないと思う」という主のことを述べている。

ところが国文学者の関根正直は、『紫式部日記』は自己吹聴が多いと示している。

たとえば、清少納言をけなして、「したり顔に真名まな(漢字)書き散らし侍るほどもよく見ればまだいとたえぬ」などと批判している。何かしたり顔をして漢字を書いているけれど大したことはない、というような意味である。

これを紫式部に書かれたものだから、清少納言のほうが生意気な女みたいに受け取られてしまい、清少納言は非常に知識をひけらかす女、紫式部は貞淑な女という二局分類されることがある。ところが、清少納言の『枕草子』の中には、自慢話はあっても他人の批判はないから、それは逆なのではないかという説もある。

しかし、いずれにせよこの頃には、今から見ても世界的な女性たちが我が国から輩出されたことは間違いない。たまたま2008年は源氏千年祭で、京都は大変盛り上がりをみせたようだが、千年前の女性の文学的業績を国を挙げてというか、大いに称えている我々日本国民は幸せである。