21歳で秀吉の嫡男・鶴松を産み、妻の序列ナンバー2に

茶々は、遅くても天正14年(1586)10月1日までには、秀吉と婚姻し、その妻の一人とされていた。しかし、その動向がよく確認されるようになるのは、秀吉の子を懐妊してからのことで、同16年10月に、秀吉によって、羽柴政権の京都における本拠であった聚楽第から、摂津国茨木城に移され、その後しばらくは同城で過ごすことになる(『太閤書信』63号)。そして、出産が近づいた同17年の3月か4月頃に、茶々と生まれてくる子のために大改築された淀城に移され、5月27日に長男鶴松(当初は棄丸)を出産した。茶々は21歳であった。

しかし、鶴松はわずか3歳であえなく死去してしまい、秀吉は、鶴松死去にともなって、家督を甥の秀次に譲り、聚楽第も秀次に譲って、自身は寧々ともども大坂城に移った。そして翌文禄元年(1592)3月から、朝鮮出兵にともなって肥前国名護屋城に在城した。その際、茶々もこれに同行している。ここで茶々は、秀吉正妻の扱いをうけていることが確認され、鶴松死去によっても、その立場に変化はなかったことがわかっている。

淀君(茶々)の肖像画(写真=「傳 淀殿畫像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

鶴松の夭折後4年でふたりめの子・秀頼を出産する

そうして同年のうちに再び懐妊し、翌同2年5月までに大坂城に戻った。以後は二の丸に居住したことが確認され、「二の丸様」と呼ばれている。そして、8月3日に次男秀頼(幼名は拾丸)を出産する。もっともこの時点で、秀頼の羽柴家後継者の地位は確定されていない。すでに羽柴家当主は秀次に譲られていたからである。しかし、その後の政治史は、羽柴家の将来像をどう描くかという観点から展開していき、最終的には、同4年7月、秀次切腹事件として結実することになる。

その間の文禄3年11月、茶々と秀頼は大坂城二の丸から、秀吉の京都における本拠として築城された伏見城(指月城)の西の丸に移り、茶々はその後「西の丸様」と呼ばれている。

そうして秀次没落後は、秀頼が秀吉後継者の地位を確立することになる。そのうえで秀吉は、自身に次ぐものとして秀頼を位置付け、それに続けて寧々、茶々を位置付けている。このことは茶々が、寧々とともに、羽柴政権の正妻としてそれを主宰する側に位置し続けていることを示している。