まだ子どもの秀頼が心配で、家康や前田利家に懇願した

覚書の最初に登場するのは「内府」、つまり、徳川家康でした。家康が「律儀」であることを秀吉が見て取り、近年、昵懇じっこんにしてきた。よって「秀頼(秀吉の後継者)を孫婿にして、秀頼を取り立ててほしい」と秀吉は前田利家や年寄衆5人のいるところで、たびたび懇願していたようです。家康の子・徳川秀忠の娘(千姫)は、秀頼に嫁ぐことになりますので、家康は秀吉との約束を守ったと言えましょう。

豊臣秀頼像(画像=養源院所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家康の次は、大納言殿(前田利家)に対する遺言です。利家は秀吉とは昔からの知り合いであり、これまた「律儀」ということを知っている。秀頼の傅役もりやくとするので、秀頼を取り立ててほしいと、秀吉は利家に願っています。家康や年寄衆5人がいるところで、秀吉は懇願したようです。

「江戸中納言」(徳川秀忠)にも、秀吉は遺言を残しています。それは、秀頼のしゅうと(妻の父)となること、そして、家康が老いて病気がちとなっても、家康のように、秀頼の世話をしてほしいとの願いでした。前田利長(利家の子)や宇喜多秀家、上杉景勝・毛利輝元といった有力大名にも、秀頼のことを頼むと秀吉はこのとき、述べています。

そして「年寄共五人」=五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)は、誰であっても法度に背くようなことをしたならば、仲違いした双方の者に「意見」し、仲良くするようにしてほしいとも秀吉は語っているのです。

家康ら五大老に裏切り者がいたら処断してもよいと遺言

もし、それでも聞かない者がいたならば、斬っても良い。それは、追腹(家臣が、死んだ主君のあとを追って切腹すること)と同様と思え、もしくは秀吉に斬られたことと同様に思えと語っています。秀頼に顔を張られたり、草履を直すことがあったとしても、それは秀吉がやったことだと思い、秀頼を大切にしてほしいとも言っています。要は、ほとんどが、自分(秀吉)の死後、秀頼を頼むという内容です。

鋭敏な秀吉のことですので、自らの死後、法度に背いて、勝手な行動をする輩が出ることは見越していたでしょう。そのような不届き者が出たときは、五大老のなかで談合し、先ずは、なんとか穏便に済ますようにしてほしい。穏便に事を済ますことが困難ならば、不届き者は成敗して良いと秀吉は五大老に遺言したのです。