軟禁状態からひそかに教会に通い、キリスト教に感化された

もちろん、玉が勝手に邸宅を出ることはできません。それでも玉は、一度だけでも教会に足を運んでおきたかったのです。宣教師を訪問後、玉は侍女を教会に送り、その侍女から教会での説教を聞くようになります。そうしているうちに、侍女のうち、父親もキリスト教徒だった清原いとが、イエズス会の宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスから洗礼を受けマリアという名を得ます。他の侍女も同様に洗礼を受け、玉の幼少期の乳母までもが入信しました。ごく自然に玉自身も、なんとか洗礼を受けられないだろうかと考えるようになります。

しかし、彼女は大坂で軟禁状態にあります。宣教師も含め、男性に会うことは禁止されています。そこで玉は、宣教師からではなく、いとから洗礼を受ける形で、クリスチャン・ネームであるガラシャの名を得ることにします。彼女の入信は1587年のことでした。

1600(慶長5)年に、秀吉没後の一連の権力闘争が目にみえる形で始まります。石田三成を筆頭とする、徳川に反発する軍が、細川忠興にどちらの味方になるのかと身の振り方を迫ります。石田側につくのか、徳川側につくのか。迷う忠興を横目に、石田側は忠興の妻を人質として取ることで忠興の動きを牽制しようとします。

ガラシャは人質となることを拒否しましたが、それにより石田側の実力行使で細川家の人々に害が及ぶことを避けて、自宅で死を遂げる覚悟をします。ガラシャは心を固め、辞世の句を詠みます。

散りぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

ヨーロッパにも殉教者として伝わったガラシャの最期

ガラシャは屋敷内の侍女を逃避させ、キリスト教では自害が禁止されているため、家臣に介錯を頼み、力尽きたといいます。日本にいたイエズス会の宣教師は、洗礼を受けていたガラシャの置かれた当時の状況を知り、詳細を手紙に書いてヨーロッパへ伝えていました。そうして、その報告によってガラシャの最期は「丹後の女王(Regina)の殉教」として、ヨーロッパに伝わっていったのです。

提供=宮津市
「ガラシャ夫人像」カトリック宮津教会

細川の家が支配していた丹後は、ガラシャ本人が父から受け継いだ土地でした。1度は女城に幽閉され憂き目も見た場所ですが、ガラシャが「丹後の女王」と呼ばれるようになった所以です。

それにしても、彼女のオペラのタイトルがMulier fortis、つまり彼女が『強い女』として劇化されたことは、当時の時代と文化を反映しているように思います。異国の女性のキリスト教への敬虔けいけんな姿が、人々の心を揺さぶったのでしょう。

ガラシャに関しての想像や脚色はあったとしても、彼女の死から98年後の1698年、オーストリアのウィーンで日本の「強い」クリスチャンの女性のオペラが上演されていたのは事実であり、ハプスブルク家の貴人たちがガラシャのオペラを鑑賞していたのです。