キリスト教徒として生きることを選んだねねの養女・豪姫

ガラシャが命を絶つ時に、彼女の周りにいた細川家の女性を助けるよう指示したと言われているのが、ねねと秀吉の養女の1人、豪です。

豪は、加賀藩を治めていた前田利家とまつの子供です。彼女は1574(天正2)年の生まれで、数え2歳の時、秀吉とねねの養女として豊臣家に来ました。ねねと秀吉が最初の居城、長濱城に引っ越す前のことで、まだまだ、天下統一からは程遠い1575年頃のことでした。秀吉に特に可愛がられて育った豪は、ねねと一緒に大坂城に移ります。

賑やかな大坂城で少女時代を過ごした彼女の周りには、母親であるねねとその侍女がいました。ねねは仏教徒だったとはいえ、イエズス会士が伝道するキリスト教にも興味を持っていました。真実かはわかりませんが、1595年10月20日付のフロイスの1595年度年報には、キリスト教が仏教や神道より優れていると言った、と伝わっています。次のようなエピソードがあります。

「キリストは優れている」と持論を展開した秀吉の正室ねね

……(高山)ジュスト(右近)の母(マリア)は、太閤様の夫人で称号で(北)政所様と呼ばれている婦人(ねね)を訪問するために赴いた。そこで他の貴婦人たちがいる中で、(ねねに)非常に寵愛されていた2人のキリシタンの婦人たちの面前で、話題が福音のことに及んだとき、(北)政所様は次のように言った。

「それで私には、キリシタンの掟は道理に基づいているから、すべての(宗教の)中で、もっとも優れており、またすべての日本国の諸宗派よりも立派であるように思われる」と。

そして(ねね)は、デウスはただお一方であるが、神や仏はデウスではなく人間であったことを明らかに示した。そして(ねねは)、先のキリシタンの婦人の1人であるジョアナの方に向いて、「ジョアナよ、そうでしょう」と言った(ジョアナは)「仰せのとおりです。神は日本人が根拠なしに勝手に、人間たちに神的な栄誉を与えたのですから、人間とは何ら異なるものではありません」と答えた。

それから(北)政所様は同じ話題を続けて次のように付言した。

「私の判断では、すべてのキリシタンが何らの異論なしに同一のことを主張しているということは、それが真実であることにほかならない。(その一方、)日本の諸宗派についてはそういうことが言えない」と。

これらの言葉に刺戟しげきされて、別の婦人すなわち(前田)筑前(利家)の夫人は、称賛をもって種々話し始め、あるいはむしろ我らの聖なる掟に対して始めた称賛を続けて、すべての話を次のように結んだ。「私は私の夫がキリシタンとなり、わたしが(夫の)手本にただちに倣うようになることを熱望しています」と。

(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第1期第2巻、83〜84頁)
※一部、括弧の注は著者による。

南蛮寺(キリスト教会)が描かれている。リスボン美術館蔵「南蛮屏風」(部分)、16世紀(狩野道味作/PD-Japan/Wikimedia Commons