豪姫は戦国の世で最も自由に生きられた女性かもしれない

イエズス会士ルイス・フロイスがヨーロッパへ書き送った1595年の日本年報に、ねねは侍女だけでなく、高山右近の母や前田利家の妻と、ゴスペル(福音)について議論を交わしているというのです。

仏教と神道。その2つが混じり合った土着信仰は、当時の日本列島の各地にありましたが、そこに、キリスト教という異国の神が入ってきた時に、排除せず受け入れるというのは誰もが容易にできたことではなかったはずです。キリスト教に接することや、信じる理由は様々でしたが、ねねの娘の豪は、のちにキリスト教に改宗します。

豪は八郎(宇喜多秀家)との結婚の後息子2人をもうけますが、その2人は豪よりも早く洗礼を受けました。豪の父秀吉は、伴天連ばてれん追放、つまり、初めは容認していたイエズス会の活動を突如認めない方針を打ち出し、この決断を発端に、日本でのキリスト教弾圧はしばらく続くことになります。

日本のキリスト教徒が国外に追放されたり、公開処刑にまであうとても危険な目にさらされている時勢だったにもかかわらず、豪は信仰心とともに生きました。

北川智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ社)
北川智子『日本史を動かした女性たち』(ポプラ社)

豪のクリスチャン・ネームはマリアでした。母のねねのように仏尼にならず、キリスト教徒として生きることを彼女は選びました。そして、1600年代、当時、教会があった生まれ故郷の金沢に引っ越します。

豪は秀吉の周りにいた女性たちの中では、一番自由な選択をしたように思えます。名家に生まれ、名家に養われ、名家に嫁ぎました。それなりの苦労はあったでしょうが、信仰を選び、信仰を貫ける基盤が彼女には与えられていました。

戦国時代の女性たちの様々な要素の中でも、「日本人女性としてこうあるべきだから」という基準で決断をしていないところに、私は魅力を感じます。ねねを含め、波乱の時代を生きた女性たちは、その時代の理屈や理想に沿った生き方をしませんでした。日本の天下統一期の歴史は、女性でも男性でも、人はみな、困難なときに立ち止まってはいけないと教えてくれます。

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