秀吉の妹・旭姫が家康に嫁いだ経緯

一方、家康の家臣の松平家忠が書き遺した『家忠日記』には、秀吉の来襲に備えて防衛力を強化中だった岡崎城でも、前後を覚えないほど揺れ、その後も余震が続いた旨が書かれている。このため修復が必要になり、家忠自身、毎日普請の監督をしなければならなかったという。

だが、言い換えれば、城の普請を継続できる程度の被害だったということである。ましてや、本拠地の浜松城はさらに震源から遠く、被害も小さかった。すなわち天正地震は、畿内を中心に尾張(愛知県西部)、美濃(岐阜県南部)、そして北陸と、秀吉の勢力範囲をねらい打つように襲っており、それにくらべれば、家康の領土はかなり軽傷で済んでいた。

畿内では翌天正14年(1586)春まで余震が続いたという。そんななか秀吉は、しばらくは「家康成敗」を取り下げこそしなかったが、実現はすでに現実的ではなかった。1月24日には織田信雄が岡崎城に赴き、27日に家康に会って和睦を勧告。その結果、家康が「何事も関白の意向に従う」と申し出たのを受けて、2月8日、秀吉は正式に「家康成敗」を中止。赦免することにした。

これを受けて、秀吉の妹の旭が、正室として家康のもとに嫁ぐことになったのである。

家康が切腹させられた可能性

秀吉が「家康成敗」を実行に移していたら、どうなっていただろうか。秀吉の勢力は天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いのころとは比較にならなかった。天正13年(1585)正月に中国地方の毛利氏を従属させ、4月に畿内を平定。7月に従一位関白に叙任し、翌月には四国を平定。北陸の佐々成政も従属させ、全国統一も間近という勢いだった。

秀吉は天正18年(1590)の小田原征伐の際には、約22万もの軍勢を動員している。「家康成敗」を標榜していたころは、まだ九州などを支配下に置く前だったとはいえ、おそらく20万近い軍勢が動員され、家康は秀吉によって軍事的にすっかり制圧されただろう。

本多隆成氏も「仮に滅亡は免れたとしても、大幅に所領を削減され、どこかへ転封(国替え)されることになった可能性が高い」(『徳川家康の決断』)と書く。むろん、抵抗の仕方次第では、小田原征伐の際の北条氏政のように、切腹させられた可能性もある。

「どうする家康」では、秀吉と家康がふたたび戦争をするかどうか、という描き方だったが、たがいに争うという生易しいものではなかった。家康が一方的に成敗されるという話で、まさに滅亡の火蓋が切って落とされようとしていた。それは武田信玄に完膚なきまでに打ちのめされた三方ヶ原の戦いなどよりも、よほど大きな危機だった。

その絶体絶命の状況下で発生した巨大地震。冒頭で紹介した「つくづく運のええ男、家康、ちゅうは」という秀吉のセリフは、ドラマで感じられるよりもはるかに深い意味を持っていたのである。

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