つまり、現在は猛烈なスピードで歴史小説のイメージが変貌しつつある状況ともいえます。大正期の人が、歴史小説を「祖先の物語」として身近に感じていたのに対し、近未来の人は、異世界の物語として受け止めるようになっている可能性があります。

将来的には、自分たちの先祖の話であるにもかかわらず、失われた国を観察するような感覚で歴史小説を読むことになるのかもしれません。

「歴史小説」と「歴史書」は別物である

これから本格的に歴史小説を読もうとする人に注意してほしいのは、小説と歴史書は別物だということです。

歴史小説家は、あくまでも物語を楽しんでもらいながら、知らない間に歴史が好きになり、歴史の知識を身につけてくれたら嬉しい、というくらいの思いで作品を書いています。「歴史を学べ、もっと知れ」と思っているとしたら、その書き手は正しく歴史小説を書けていないとさえいえます。

同業者の悪口はあまり言いたくないのですが、実際に「俺はこれだけ調べたぞ」と言わんばかりに、調べた情報をすべて盛り込もうとする書き手がいます。物語の本筋とは無関係の情報なのですが、調べた苦労を思うと披露せずにはいられないのでしょう。

「実は、このときの○○の妹は後に□□となり、90歳まで生き延びることとなるが、これはまた別の話である」。こういった記述は、読者に対するただの押しつけです。

押しつけがましさを回避しながら歴史の知識を伝え、次の作品を読みたくなるように誘うのが歴史小説家のテクニック。このジャンルの入口を担っている書き手の1人として、それを忘れないように作品を書いていますし、それができている書き手の本を読んでほしいのです。

「司馬史観」はなぜ生まれたのか

話を元に戻します。

歴史と歴史小説の違いを語るときに、避けて通れないのが司馬遼太郎という作家の存在です。司馬遼太郎は戦後を代表する国民的作家の1人であり、作品を通じて提示した歴史の見方は「司馬史観」と呼ばれます。

たしかに司馬遼太郎が描いた作品には、フィクションの要素や現在の研究では間違いとされていることが多いのは事実です。ただ、司馬遼太郎があまりに読書界を席巻したがために、彼の描く歴史が本当の歴史だと考える人をたくさん生み出してしまいました。