もし司馬遼太郎が歴史家になっていたら

平成に入った頃から、その反動で歴史家の間で司馬史観を批判する声が高まるようになります。ネットの普及とともに、さらに個人の読者からも「司馬遼太郎が書いたことを信じているなんておかしい」といった発信が行われるようになりました。司馬遼太郎が非難され、おとしめられる時代が始まり、今でもその論調が完全に下火になっていないのが現状です。

しかし、私自身はそれを不当なバッシングだと考えています。みんなが勝手に司馬遼太郎を歴史家のように持ち上げたのであり、本人は自らの学説が正しいと主張したことなど一度もありません。

東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏は、「司馬遼太郎を批判する歴史家は多いけれど、仮に彼が歴史家になっていたら、彼を批判する歴史家よりももっと素晴らしい研究成果を残していたはずだ」といったことを語っています。

その通りであり、司馬遼太郎は娯楽作家としてエンターテインメントを追求しただけなのです。結局のところ、どんなジャンルでも傑出けっしゅつしすぎると叩かれるのが運命なのでしょう。

「リアルな再現」一辺倒では小説は成立しない

実は私自身、歴史小説を書いていて、学者の方から批判を受けることがあります。代表的なのが、「平安時代の人は、こんな言葉を話していなかった」という指摘です。

では、本当に小説で平安時代の話し言葉をリアルに再現したらどうなるでしょうか。読者はまったくついてこられないでしょうし、すぐに本を投げ出すに違いありません。

小説家は、歴史の案内人としてわかりやすく伝える工夫をしているのです。工夫を怠って「読める人だけ読めばいい」という文章を書いている限り、歴史ファンは一生増えないでしょう。

歴史小説をきっかけに、広義の歴史好きが増えていくからこそ、その母体から本格的な研究者も生まれるわけです。それなのに、歴史家が歴史小説家のげ足をとっていたのでは、研究を志す人が増えないのも当然です。