※本稿は、『翻訳者の全技術』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
世間で言われているほど古典はすごくない
中学に入った時に、えらいと思っていた先輩がいた。
ある時、「先輩はどんな風に勉強しているんですか?」と聞いてみた。すると、「古典を読みたまえ」と言われた。今にして思えば中学生の背伸びだが、当時のぼくはその言葉を馬鹿正直に受け取った……んだが、古典ってのがなんだかわからない。
「古典ってくらいだから、古ければ古い本ほどいいのか」と、本屋に行って岩波文庫の古そうな本を手に取った。それがヘロドトスの『歴史』だった。
しかし、読み始めたら変な話ばかり。なぜか記憶に残っている話として、サハラ砂漠の昔の戦場跡には戦死者の頭蓋骨の山があり、片方の頭蓋骨は石を投げるとすぐ割れるが、もう片方は割れない。これはなぜかというと、頭蓋骨が割れない方は頭を剃っていたから、頭が日光で鍛えられていて頭蓋骨が硬いんだよ、というような、中学生が読んでも「本当に?」と思うようなくだらない話が山ほど書いてある。いまでもハゲな人を見ると「頭蓋骨鍛えてますねー」と思ってしまう。
ぼくはくだらないトリビアは昔から好きだったので、ヘロドトスは結構楽しく読んでしまったのだけど、そういうネタ本を求めていたわけじゃなかった。ヘロドトスの次は『ガリア戦記』か、と思ったが、結局読まなかったなあ。でもなんかこれを読むと世界のすべてが見通せるぜ、みたいな本への期待はあった。
本の最初から最後まで通読しなくていい
図書館の奥深くに、すべての秘密を書いた本が〜、みたいなのに結構あこがれていて、誰も読んだ形跡のない本をあえて手に取ったりしていた。あまり役には立たなかったけど。
あと高校の図書館では五木寛之『青春の門』など、どの本の何ページにエッチなシーンが出てくるか、といった情報交換を同級生の間でやっていたし、変な本と下ネタの嗅覚は身についたかもしれない。
その後、大学に入ると、浅田彰の『構造と力』をが流行った。さっきも述べたが、この本に書いてあった「本は気軽に読め」という言葉にはかなり共感した。本の最初から最後まで、いちいち「深いなあ」と感嘆しながら通読しなくていいという主張は、ぼくが浅田彰の思想をどう思うかはさておき、非常に参考になったし、救いになった。
この2つの経験が、ぼくの読書の指針を作ってくれた。「世間で言われているほど古典はすごくない、気負わず読めばいい」ということと、「いい加減に読み散らしていい」ということだ。こんな大雑把でいい加減な読書が、ぼくを多くの場面で助けてくれたように思う。