わずか3時間の戦闘で勝敗が決まった

その後の両軍の戦いを確認しよう。大野治房が秀忠の本陣を攻撃し、毛利勝永や明石掃部が奮闘したものの、劣勢を挽回することはできなかった。この間、両軍の戦闘はわずか3時間だったと伝わる。この時点で、豊臣方の敗北は決定した。信繁は繰り返し徳川軍に戦いを挑んだが、三度目の本陣突入の際に、非業の死を遂げた。信繁の最期の様子は後述することとし、戦闘の経過を確認しよう。

信繁と徳川方の戦いの模様は、井伊直孝に仕えた岡本半介が書状に書き留めている(「大阪歴史博物館所蔵文書」)。最初、松平忠直が率いる軍勢と真田信繁の率いる軍勢が天王寺で交戦し、1時間ばかり揉みあいになっていた。

両軍が戦闘を繰り広げている中で、井伊軍が攻め込んできたという。真田軍は城際まで退却し、態勢を整えて反撃を試みた。ところが、井伊軍と藤堂軍が押し返して、真田軍に勝利したという。膠着こうちゃく状態の中、疲労困憊こんぱいの信繁の軍勢にとって、井伊軍の乱入は致命的な打撃であった。

休憩中にあっけなく討ち取られた信繁

真田方は兵数で劣っていたものの、よく健闘したのは事実である。当時の記録を見ると、両軍が形勢的に拮抗していたことがわかり、逆に徳川方が押される場面もあったという(『綿考輯録めんこうしゅうろく』など)。当初は、五分五分の戦いを展開していたが、徳川方の軍勢が多かったので、辛うじて真田方に勝利することができたというのが実情らしい。最後は衆寡敵せず、真田軍は大軍の徳川軍に負けたのである。

信繁の最期は、「信繁が合戦場で討死した。これまでにない大手柄である。首は、松平忠直の鉄砲頭が取った。しかしながら、信繁は怪我をしてくたびれているところだったので、手柄にもならなかった」と記されている(『綿考輯録』)。

安居神社の真田幸村戦死跡之碑(写真=KENPEI/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

鉄砲頭が信繁の首を取ったのは、もちろん手柄だった。ところが、戦闘の末に取ったのではなく、怪我をした信繁が休んでいるところだったので、価値がなかったということである。信繁の首を取ったのは、松平氏配下の鉄砲頭である西尾久作で、信繁が従者らに薬を与えているところを討ったという(『慶長見聞集』)。信繁は疲労困憊したうえに、少し油断もしていたので、あっけなく討ち取られたのだろう。