たとえ恨んでいる部下でも我慢して活用した家康
酒井家は譜代大名の中でもトップのはず。これはどう見ても、家康が酒井を嫌いだったとしか見えない。そして、どうしてそこまで酒井のことを嫌っていたのかというと、やっぱり信康腹切事件が一番の原因ではないだろうか。しかしそうはいっても、家康が信長や秀吉と違うのは、信長の場合は「こいつは嫌いだな」となったらすぐ排除するでしょう? 秀吉もそこは似たようなものです。
しかし家康は我慢をする。小説『覇王の家』ではないですが、家康はその感情を表には出さずグッと堪えていた。「ちくしょう、この野郎、いつか見ていろよ」と思いながら家来の筆頭ポジションの酒井を相変わらず重い立場で用いた。
それが関東へ行くときになってようやく「もうそこまですることはないな」ということで酒井家を「叔母さん(臼井殿)がまだ生きているから、まあ四万石はやるけど、本当は四万石もやりたくないね」という扱いにした。そうした印象を受けます。領地の増やし方を見ると、家康は「俺の目の黒いうちは酒井を許さん」と考えていたようにしか見えない。
家康存命中は干されていた酒井家は秀忠の時代に出世
結局、どうなるかというと、家康が死んだのち、秀忠が徳川の実権を完全に手にしたとたんに酒井は一発で十万石に増やしてもらいます。さらに庄内で十四万石をもらい、ここで飛び抜けて増えて、酒井十四万石というと、譜代大名の中で井伊に次ぐ石高となる。秀忠にしてみると、信康が生きていれば自分は将軍になれなかったということもありますし、家臣全体のことを考えて、「冷遇はもういいんじゃないか。領地を増やしてあげるよ」ということだったのではないでしょうか。
そうすると、酒井家の石高が家康存命中には抑えられていた理由は、信康の一件しかないのではないか。それが今のところの私の考えです。最近つくづく思うのですが、昔から唱えられている定説って、唱えられるだけの根拠というものがあるのですね。いっぽう、自分が目立ちたいからと、とにかく昔からいわれてきたことをひっくり返してみても、全体的なバランスから見るとやっぱり昔の説でいいじゃないかということがしばしばあります。新しけりゃいいってもんじゃないし、奇抜なことをいえば勝ちということはない。最近すごくそう思います。「司馬遼太郎の考察は深かった。やっぱり偉大だな」と、あらためて感じます。