信康=岡崎派、家康=浜松派の分裂

最近の研究では、「築山殿事件」は信長の命令というより、徳川家臣団の内部対立(浜松派と岡崎派)による複雑な事情が主な原因とされ、家臣団の乱れを象徴する事件と見る向きもあるようです。家康が、妻と息子を殺したのは、家臣団の結束が乱れ、徳川家中が二つに分かれて、崩壊の一歩手前まで来ていたがための、やむにやまれぬ手段であった、との見方です。

浜松と岡崎、長く離れて暮らす生活を余儀なくされた父子の間に、日々不信の念が高まっていたのかもしれません。それが発端となって信康=岡崎派、家康=浜松派という家臣団の対立を招き、最終決断として岡崎派を切らざるをえなくなった、ということであったのかもしれません。

勝頼の首を前にした信長は…

織田・徳川連合軍は、信玄の後を継いだ勝頼を、長篠の戦いで徹底的に叩いたものの、武田家はかつての輝きこそ失いましたが、なかなか滅びませんでした。

長篠以降7年の間、家康の領国は何度となく武田軍に攻められています。

ところが武田家の再興をあせる勝頼は、内政をおろそかにし、戦に明け暮れて領民に重税を課したため、領内には不満が充満していました。

いよいよ武田家もここまでか、と見てとった信長は、1582(天正10)年、北条ほうじょう氏政うじまさとも計ったうえで、家康と共同して武田攻めを再開します。

まもなく、さしもの武田家も、ついに滅亡してしまいました。

織田信長像(写真=Bariston/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

武田氏が滅亡したとき、家康は信長の目を盗んで、多くの武田家遺臣を召し抱えますが、その様子について、次のような逸話が『名将言行録』に残っていました。

長年の宿敵、武田氏を滅ぼした信長は、勝頼の首を見て、

「お前の父・信玄は、非義ひぎ不道ふどう(父の信虎のぶとらを、信玄が駿河に追放してクーデターを起こしたこと)であったために、天罰逃れがたく、今、このざまだ。また信玄は一度は京に赴こうとしたと聞いている(上洛戦を指して)。されば、お前の首を京に送り、女子供の見世物にしてくれるわ」

と罵って、勝頼の首を見せしめのため、家康の陣に送ったと言います。