60歳前後だった勝家の最期は悲壮だが武将として見事

この老女が勝家の最期を語ったとすれば、信憑性は高いだろう。フロイスも間接的にこの情報を得ていたのかもしれない。女房衆で生き残った者が勝家の最期を伝えたようである。勝家の最期は悲壮だが、見事としかいいようがない。

太田牛一の自筆本『大かうさまくんきのうち(太閤様軍記の内)』は簡潔に次のように記している(意訳)。

柴田勝家は、信長公の家臣の中で隠れなき武辺者である。信長公が平定した大国である越前国の支配を任せられていたのだから、本能寺の変後は、明智光秀に対し弔い合戦をすべきであった。それができなかったのなら、光秀を滅ぼした秀吉を盛り立てるべきであった。それなのに、信孝殿と結んで天下を取ろうとし、能登・加賀・越前の3か国の軍勢を動員して進軍し、秀吉配下の桑山重晴が守る賤ヶ岳を攻撃した。これを聞いて秀吉公は救援に駆けつけ、賤ヶ岳で柴田軍を打ち破った。勝家は北庄城に逃げ延びたが、秀吉軍に攻囲され、最期を悟り、一門・親類30余人が切腹し、天守に火を掛けて焼死した。

お市の連れ子の三姉妹や勝家の遺児はどうなったのか

お市の連れ子の3人の息女については、富永新六郎を付けて秀吉の陣へ送り届けたとも、老臣の中村宗教が付き添ったともいう。ただし、宗教は辞世を詠んでおり、燃える天守の炎の中へ飛び込んだとも伝わる。三姉妹は一乗谷で保護されたともいう。『当代記』は、乳母めのとの才覚によって脱出できたとしているが、お市の息女は3人ではなく、お茶々とお江の2人としている。もうひとりの息女お初はお市の実子ではない可能性もあろう。

長女といわれる茶々(淀殿)は後年、秀吉の後継の豊臣秀頼を生んだのち、勝家の十三回忌となる文禄4年(1595)に「始観浄金大禅定門」(柴田勝家)を供養している(『江州浅井家之霊簿』)。継父だったのは半年ほどに過ぎないが、勝家に対する感謝の思いもあったのだろう。

柴田勝家が自刃した北庄城の跡にある北庄城址・柴田公園、柴田勝家公・お市の方の像(福井市)(画像=『福井市・柴田神社』​より)

次女といわれるお初は京極高次に嫁したが、京極家の史料には、天正10年(1582)に嫁したように記しているものがある。本能寺の変後、光秀方となった京極高次は秀吉の追及を逃れ、北庄城の勝家を頼って落ち延び、この時、従妹のお初を娶ったという。勝家が京極家を味方に付けるために縁組したと推測する説もある。