破局のストレスでグダグダしていた娘に父が放った言葉

「おまえはまったく会社に貢献していない。辞めてしまえ!」

乱れた生活を見かねて一喝したのは父親だった。

父は、発電関連の自動制御技術をメインとした社員70人の商社とエンジニアリング会社を経営していた。戦時中は特攻隊に志願し、最年少だったため生き残ったという父だった。

「うちの会社なら、おまえみたいなクズ社員はいらん。どうすれば会社に貢献できるか考えろ。半年で答えが出なければ辞めろ」

父親としての小言ではなく、経営者としての叱責。半年の期限を切られ、簑原さんはマインドを入れ替える。

撮影=市来朋久

「自分でもビックリするぐらい仕事をがんばりました。社外の各種セミナーや習い事など自己啓発に努め、自費で100万円以上を使いました」

会社への貢献を模索する簑原さんに、本社から思いがけない依頼が舞い込む。クリスマス用のボーディングパス(搭乗券)をデザインする仕事。デザイナー経験はないものの、子どもの頃から絵は得意だった。簑原さんの画力を知っていた同僚が伊丹空港から本社へ異動し、急ぎで必要となった搭乗券の絵を頼んできたのだ。

簑原さんが描いたサンタやトナカイは大好評で、全国の空港で乗客たちの手に渡った。社内で評判となり、次に電光掲示板のデザインを頼まれた。

答えを出す期限が近づき、伊丹空港へ父を連れていくと、電光掲示板を眺めて「まだいけそうだな」とだけ言われ、会社に貢献できることを示せた。婚約破棄で乱れていた心に火をつけてくれた父。仕事への姿勢が大きく変化した。

27歳と30歳の時に訪れた「結婚か仕事か」の選択

マインドを切り替えた簑原さんは、新しい仕事に次々と挑戦していく。26歳で現場リーダーに選ばれ、社内研修の教官も務めた。

「結婚か仕事かの選択が27歳、30歳にもあって、やっぱり仕事を選びました。仕事がどんどんおもしろくなり、恋愛もしながら自分磨きを楽しんだ時期です。人材育成のリーダーたちと社内横断的に協力し、組織改革にも取り組みました」

空港の業務全般を教えられる運送教官に選ばれたのは30歳。社内に数人しかいない立場だ。

「天職にめぐり合えたと思いました。人の成長に関われる喜びを感じながら、問題意識が強いことを生かして教育制度や業務マニュアルを見直しました。改革を通して社内外の仲間も増えました」

仕事の幅が一気に広がっていく。カナダの空港でチャーター便のスーパーバイザーを務め、社内で停滞していた新制服プロジェクトを立て直し、JASのブランディングを検討する全社プロジェクトにも参画した。全国の教官を養成するインストラクターにもなった。

東京転勤を命じられたのは2002年1月、36歳の時だった。自動チェックイン機の開発運用担当となり、メーカーの開発者と協力して機械の導入を進めた。慣れない本社の仕事と東京生活に一時はストレスが溜まったものの、2年もたてば空港本部の仕事でわからないことはほぼなくなった。プライベートでも友人が増え、習い事や遊びも充実してきた。