「大阪」は浄土真宗がつくったと言っていい

この難波別院に対し、300メートル北には浄土真宗本願寺派(通称「お西さん」)の津村別院が建っている。大阪の一等地に、浄土真宗の巨大寺院があるのには理由がある。

歴史を遡れば、「大阪」は浄土真宗がつくったといっても、過言ではない。「大坂」という地名の初出は15世紀末、本願寺8世で中興の祖とも呼ばれる蓮如がしたためた「御文おふみ御文章ごぶんしょう」といわれている。この「大坂建立章」(4帖第15通)で蓮如は、『当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや』と、述べている。ここでいう大坂とは、現在の大阪城あたりを指した。

蓮如は未開の地であった大坂の地に、大坂御坊(後の石山本願寺)の建立を発願。そこに門徒衆が集まり、寺内町を形成し、大いに栄えた。

だが16世紀末、織田信長と10年にわたって対立した(石山合戦)結果、石山本願寺は退去。その跡地に、豊臣秀吉の手によって大坂城が建設されたというわけだ。浄土真宗の総本山は、現在の京都・西本願寺の地に移転した。

ここ御堂筋の難波別院の創建は1595(文禄4)年のこと。本願寺12代の教如が大坂渡辺に建立した大谷本願寺に遡る。2年後に大谷本願寺はこの地に移転した。

1602(慶長7)年、京都の本願寺のお家騒動に乗じて、徳川家康が本願寺を分けたことで、現在の東・西の本願寺が生まれた。そのため大坂における浄土真宗も、真宗大谷派難波別院(南御堂)と浄土真宗本願寺派津村別院(北御堂)に分かれ、現在に至っている。

1926(大正15)年の大阪都市計画において、この「2つの御堂」をつなぐ参道の拡幅工事が完成する。それが、現在の御堂筋なのである。

しかし、1945(昭和20)年3月の第1次大阪大空襲によって、難波別院や津村別院を含める一帯は焼失した。

こうして終戦の年、空襲による焼け落ちた難波別院だが、1961(昭和36)年に本堂と山門の再建を果たす。この時、山門は商業ビル「御堂会館」として生まれ変わった。当時も寺院と商業施設の一体型ビルの、先駆け的存在として注目を浴びた。

御堂会館には1000人規模を収容できるホールがあった。昭和の映画ブームの時代には、試写会の聖地としても映画ファンから知られていた。

ところが、2011(平成23)年の東日本大震災をきっかけに、耐震性の問題が浮上する。御堂会館は震度6以上で倒壊する可能性が指摘された。建物もかなり老朽化しており、解体を余儀なくされた。本堂の耐震性にも問題が見つかり、改修工事が必要となった。