これまでの知識のネットワークを組み替えて再構築する

以下にわたしが書くのは、その表面上の目的のもっと深くにある目的です。「新しいジャンルに取り掛かる前の棚卸し」という表面上の目的のために再読をすることで、いつか未来になって思い返してみたときに、結果的に気がつくことになるであろう効果です。

つまり、新しいジャンルに手を出したいときほど、自分が過去に読んだ本を読み返すべきであり、そのときは再読をしながら「これが結局は最短のルートなんだ」と思えばいいのです。その再読が読者のなかでその読者なりの書物のネットワーク、その読者なりの知識や概念の唯一のネットワークを構成していくのですから。

ここでわたしが書くことは、実際に再読をする時には忘れてしまって構いません。再読をすることに抵抗を感じたときにだけ、思い出してくだされば結構です。再読は、読者それぞれの読んできた書物どうしのネットワークを、読者それぞれが読んできた知識や概念のネットワークを、組み替えて再構築する行為です。

新しい分野、新しいネットワークに手を出す前に、自分の知っている(つもりの)ネットワークを組み直しておくことで、新しく触れる未知のネットワークと自身のネットワークをより深く結びつけることができるようになります。この「より深く結びつけられる」ということが「急がば回れ」の正体です。

横山光輝『三国志』を読んでおくことで、自分なりの故事についての知識が自分のなかに重ね書きされます。どの故事が印象に残るかは読者しだいでしょう。そして、自分のなかで重ね書きされた故事が、中国思想史に本格的に取り組んだときに新しい文脈を生み出すことになるでしょう。

写真=iStock.com/ijeab
※写真はイメージです

一度読んだ本から新しい知識は得られないのか?

ところで、再読の億劫さ、面倒さについて、読む前に感じる一番の抵抗感は「もう読んだから何も新しい知識を得られないだろう」という思い込みに由来します。

ひとは読書をするときに読み落としをしてしまいますし、たしかに読んだはずなのに忘れてしまうことがあります。再読の際に、読み落としていた箇所や、読んではいたけれど忘れていた部分に出会い直す場合、そのことが「新しい知識に出会う」ことよりも価値のないことだと誰が言えるでしょうか。