雅子さんを大きく突き動かした一言とは

それからは何としてでも小和田雅子さんに承諾してもらわなくてはいけないと宮内庁が動いた。だが、そう簡単ではなかった。父親の小和田ひさしさんが娘の雅子さんに伝えたところ、英国でマスコミに対して全面否定したのにまだ思し召しがあるとは想像もしていなかったと驚いたそうである。

その後2人は5年ぶりに再会して、皇太子からの電話やファックスが自宅に届くようになったが、雅子さんの気持ちは動くことはなかったという。

1992年10月3日、千葉県市川市にある宮内庁新浜鴨場で、皇太子は雅子さんに「私と結婚していただけますか」とプロポーズした。

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だが雅子さんは、「……お断りすることがあってもよろしいでしょうか」と答えたそうだ。

皇太子は「雅子さんが皇室に来てくれたら、嬉しい」ともいったそうだ。

1カ月半が過ぎたが雅子さんのほうから返事はなかった。彼女を仮御所に招き、皇太子はこういった。

「皇室に入られることには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が全力でお守りしますから」

この言葉に雅子さんは大きく突き動かされたという。

結婚後待っていたのは、皇室外交ではなく…

そして12月、雅子さんの誕生日に皇太子は、自分も悩んでいたと心中を吐露したそうだ。

雅子さんが聞くと、

「僕としては雅子さんに是非とも皇室に来ていただきたいと、ずっと思っているけれども、本当に雅子さんのことを幸せにして差し上げられるのだろうか、ということに悩みました」

と率直に話したそうだ。

この言葉が、雅子さんに結婚を決意させたといわれている。

週刊新潮(6月15日号)によれば、1993年1月19日、婚約内定会見が開かれ、その年の6月9日、当時33歳だった皇太子と29歳の雅子さんは、皇居から赤坂御用地までの4キロ余りをパレードし、2人を一目見ようと沿道に集まった観衆は19万人ともいわれた。

各局を合わせたテレビの生中継の視聴率は85.6%(瞬間最高視聴率)を記録した。

だが、多くの国民から祝福されて皇太子妃になった雅子さんを待っていたのは、望んでいた皇室外交ではなく、宮内庁を始めとする周囲の「お世継ぎを産め」という強烈なプレッシャーだった。

メディアもそれに加担して、懐妊の兆候がないかをスクープするために狂奔する。1999年12月10日付の朝日新聞が、「雅子さま、懐妊の兆候」と一面で報じた。だが、その月の末に、稽留流産(胎児が子宮の中で亡くなった後、胎児や胎盤などが子宮から排出されずに残っている状態)だったことが判明する。

「これらの一連の過程で、雅子皇后はメディアとともに宮内庁にもぬぐいがたい不信感を抱かれてしまった」(新潮)