なぜ「世襲」は袋叩きに遭ってしまうのか
「巨大な差別」〔脳科学者・苫米地英人氏による著書・『世襲議員という巨大な差別』(サイゾー)〕、もしくは、「世襲議員が異常に多い国・日本」(ハーバード大学准教授ダニエル・M・スミスによるインタビューのタイトル(『中央公論』2019年3月号)として、「世襲」は袋叩きに遭っている。
「後進国」日本を象徴する社会的な悪の扱いであり、問答無用にダメだとされている。
たしかに、おととし秋の自由民主党の総裁選挙では、岸田文雄、野田聖子、河野太郎の3氏が「世襲議員」であることを指して、格差社会の象徴であるかのような論調も見られた。
日本が格差社会であるかどうか、を論じるよりも、なぜ「世襲」はダメだと言われるのか。
たしかに、民主主義の根幹を支える選挙において「世襲」は抜け道というか、裏ワザというか、ズルいように見える。地盤(後援会)、看板(知名度)、カバン(資金)の3つの「バン」があれば、当選しやすいように見える。
しかし、3つの「バン」を持ちながら、女性問題で自由民主党を追われた中川俊直氏(広島4区)は、前回の総選挙で落選している。好条件ではあるものの、当選するパスポートではないし、将来、岸田翔太郎氏が父・文雄首相と同じ選挙区から立候補するとしても、プラスに働くとは限らない。
ここで注目したいのは、いまの日本では、だれも「世襲」議員を肯定していない(ように映る)ところである。
「世襲」を問答無用に否定する人たち
まず、「言うまでもなく世襲は問題である」と考える人たちがいる。いる、というよりも、多数派だろう。
今回の岸田家のように、身内で仕事を融通したために緊張感や社会常識を欠く。近しい人たちの意見にばかり耳を傾けるので、幅広い世論をくみあげられない。
政治学者の飯田健・上田路子・松林哲也の3名が「世襲議員の実証分析」(『選挙研究』26巻、2号、2010年)で示したように「世襲議員」の選挙の強さは、有権者への説明責任を弱める恐れはある。支持団体のほうばかりを向く可能性を捨てきれない。
「世襲」は民主主義の否定であり、問答無用に受け入れられない、こうした立場の人たちが多いのではないか。