軍事的にも健康にも好都合

だが、慶長8年(1603)に任ぜられた征夷大将軍を同10年に秀忠に譲ると、家康は自身の隠居城に駿府城を選んだ。もっとも、家康が本気で隠居しようと考えたのではない。むしろ、大御所として自由な立場で政権を運営する気満々で、結果、それからしばらく駿府が事実上、日本の首都となった。

そして、中村氏ののち、家康の異母弟といわれる内藤信成の居城になっていた駿府城を事実上、一から築き直した。毛利輝元、前田利長、細川忠興、池田輝政ら外様の大大名の負担で、慶長12年(1607)2月から急ピッチで工事が行われている。

早くも同年7月には本丸が完成し、続いて三重の水堀がめぐる輪郭式の平城ができ上ったが、12月に失火で完成したばかりの本丸が全焼。しかし、すぐに諸大名の負担で工事が再開され、翌慶長13年(1608)8月に天守の上棟式が行われ、城全体は同15年(1610)3月に完成した。

家康が駿府城にこだわった背景には、万が一、大坂の豊臣秀頼の軍が関東に向かって下ってきた場合、江戸の手前で食い止める目的があったと考えられる。一方、家康は駿府の地が温暖ですごしやすいことを熟知していた。いわゆる「健康オタク」だった家康が、終の棲家にふさわしい土地だと判断したのだろう。

発掘された史上最大の天守台

だが、駿府城は家康の死後、たび重なる災害に見舞われた。寛永12年(1635)には火災で天守をはじめ御殿や櫓など多くの建造物が焼失し、宝永4年(1707)の地震で石垣の多くが大破。安政元年(1854)の大地震では石垣や建物の大半が崩壊した。

だから現在の駿府城は、三重の堀のうち中堀と外堀はよく残るが建造物は現存せず、石垣も当初のまま残されているものは少ない。本丸を囲む内堀も、明治29年(1896)に陸軍歩兵第34連隊が置かれた結果、北東角にあった天守台もろとも埋め立てられてしまった。

このため、家康時代の駿府城の姿は想像するしかないと思われていたが、平成28年(2016)からの本丸の発掘調査で、貴重な遺構が次々と掘り出された。

写真=時事通信フォト
駿府城跡で発見された小天守台の石垣の一部=2020年1月7日、静岡市

まず、石垣上端の平面が東西約48メートル、南北約50メートルと史上最大の天守台が出土し、現場の整理作業をへて現在、間近で眺めることができる。また、その内側から東西約33メートル、南北約37メートルの天守台も発見された。

前者の石垣は、ある程度加工された石が積まれ、隅角部は直方体の石の長辺と短辺を交互に積んで強度を増した算木積みなのに対し、内側の天守台は自然石を積んだ野面積みで、隅角部にはまだ算木積みが見られない。このため、前者は将軍を譲ってのちの、後者は『家忠日記』に記された天守台だと考えられる。