富士山を借景に浮かんだ華麗な天守
『家忠日記』には天守の外観などの記載がないので、家康が最初に築いた天守の姿はわからないが、隠居城として築かれた天守の姿は、『当代記』のほか『慶長日記』や『増補慶長日記』などの記録から、ある程度再現できる。
史上最大の天守台は四隅に櫓が建ち、天守本体は天守台の中央に建っていた。五重六階もしくは六重七階で、『当代記』によると1階と2階には欄干が飾られ、とくに下層が御殿風の天守だった模様だ。また、残された絵巻などによると、上階は壁面に下見板が張られていた。屋根は最上階には銅瓦が葺かれ、軒先瓦には金箔が押され、鯱も金色に輝いていた。
そして、東海道から東方に眺めると、この華麗な天守の姿が富士山を借景に浮かび上がった。上方方面から駿府を訪れた人は、もれなくこの光景を目にしたはずで、徳川の権力と権威を知らしめるための、家康による周到な仕掛けだった。
復元された往時の姿
また、平成元年(1989)以降、二の丸東南角に巽櫓、そのすぐ北側に二の丸への主要な出入り口だった東御門、二の丸西南角に坤櫓が、木造の伝統工法で復元された。これらは寛永15年(1638)の大火以降の姿を再現したものだが、白漆喰による白亜の外観をはじめ、家康時代の意匠が継承されているのはまちがいない。
東御門を見てみよう。小さめの高麗門をくぐると方形の空間があり、鍵状に曲がって櫓門の下を通る。こうした形式の門は方形の空間を、米などを量る枡にたとえて枡形門と呼ばれる。また、枡形の周囲は長屋型の多門櫓で囲まれている。敵はまっすぐ侵入できないばかりか、枡形に閉じこめられ、周囲の櫓から撃たれて殲滅させられる。
しかも、その鉄壁の防御が白亜で飾られている。こうして美しく守られた城の奥に、巨大な天守台と、富士山を背にしたまばゆい天守。それこそが、家康の終の棲家の姿だった。