秀吉との距離も保てる場所
まずは浜松城から拠点を移した最初の築城を見ていきたい。このころの家康は、三河(愛知県東部)、遠江(静岡県西部)、駿河(静岡県東部)に加え、かつて武田氏の領国だった甲斐(山梨県)と信濃(長野県)も領有する大大名になっていた。
浜松城から拠点を移したのは、あらたに領国になった甲斐には武田氏の遺臣が多く、彼らを取りまとめるためにも駿府のほうが、便がよかったことが考えられる。加えて、関係が微妙だった豊臣秀吉との距離を確保したほうがいい、という考えもあっただろう。
土→石という大きな変化
天正13年(1585)7月にはじまった築城工事については、家臣の松平家忠が記した『家忠日記』にこまごまと記されている。そこにはこんな記述もある。「堀普請候」「石とり候」「てんしゅのてつたい普請」「小傳主てつたい普請」「石くら根石すへ候」……。これらの記述はきわめて重要なことを伝えている。この時期の駿府城には石垣が積まれ、広い堀で囲まれ、大天守と小天守からなる連立天守が建っていたことがわかるのである。
天正15年(1587)に本丸の堀が完成し、その翌月には二の丸の石垣が整い、同16年(1588)3月ごろから天守の建築がはじまり、同17年(1589)にすべての工事が終わったことも記されている。
石垣を積んだ本格的な城だったから、工事に4年もかかった。
それまでの家康の居城は岡崎城も浜松城も、空堀を掘った土で土塁を築き、石はあまり用いない「土の城」だったと考えられる。だが、家康は天正10年(1582)5月、本能寺の変の直前に織田信長の安土城を訪れ、総石垣で築かれ、そびえる天守をはじめ絢爛豪華な建築が立ち並ぶ、あたらしい時代の城を目の当たりにしていた。
信長の安土城に触発されて
『家忠日記』の記述は、時代の流れに敏感な家康が安土城に刺激を受け、その要素をさっそく自身の城に取り入れたことを示している。
ただし、駿府城が完成してわずか1年ほどで、家康は滅ぼされた北条氏が治めていた関東に移封となり、駿府城を離れなければならなくなる。代わって、豊臣系大名の中村一氏が城主になったが、心血注いで築いた城を手放すのは、家康にとっては無念だったにちがいない。