美童で知られた井伊直政に横恋慕した家臣の逸話

ところでこの直政にはちょっと面白い伝承がある。安永2年(1774年)に編纂されたとされる『新東鑑』に紹介される逸話である。

ある時、家康の家臣である安藤直次(1554~1635年)は徳川頼宣(家康の十男で紀州徳川家の祖)の付家老に任じられたが、住み慣れた地を離れたくなかったものか命令を拒んだ。

すると家康は重臣の土井利勝を通して、「これまで二度切腹の罪を見逃してやったのを忘れたか。その恩を思えば、否とは言うものではないぞ。早くも忘れたと言うのか」と厳しく言い聞かせた。家康の口上を伝えた利勝は、二度の罪とやらが何であるかを知らなかったが、直次には思い当たることがあった。

もう40年ほども昔の話になろうが、過去、直次は「家康公の愛童・井伊万千代」に二度ばかり情を通じようとしたことがあったのだ。横恋慕である。

一度目は逢瀬を楽しんだあと、「寝道具の葛籠」に隠れて無事に帰宅した。二度目は室内で万千代といいムードで語りあっていたところ、家康の近づく気配が感じられた。万千代はあわてて室外に飛び出し、「今宵は障りがありますので、お入りにならないで下さい」と家康に伝え、戸を閉じた。家康は「なんじゃ、顔色がおかしいぞ」とこぼしてそのまま回れ右して帰って行った。

寵臣が寝取られるのを黙認した家康は器量が大きい⁉

以来、直次は事態の発覚をずっと恐れていたのだろう。だから二度の罪と言われて、すぐにこの事件を思い出せたのに違いない。それにしても、もし本当にこのことを言っていたとしたら、家康は寵臣が寝取られるのを黙って見ていたことになる。器量があるというべきか陰気というべきか。どちらにしても家康らしい逸話であるのかもしれない。

万千代こと直政は家康の忠臣として知られるが、これも家康に浮気の事実を難詰され、その反動で忠義第一となったのか、あるいは後ろめたさを抱えながら主君に心酔していたのか、この物語ではどういう存在だったのだろうか。少し気になるところである。

なお、直次はその後、頼宣の家老として精勤したようである。

もちろん作り話であるとは思うが、18世紀の徳川家臣団へのイメージがあまり堅苦しくなく、ゆるやかであった様子を窺い知れて面白く思う。史実かどうかは別として、井伊直政といえば美童という人物像も定番だったのだろう。

図版=永嶌孟斎「徳川家十六善神肖像図」(部分) 国立国会図書館デジタルコレクション