「地震待ち」という日本人の悪癖

【藻谷】全くその通りですね! 日本の会議だとかパネルだとか、問題提起の報道番組だとか、どれもこれも結論が「みんなで考えましょう」で終わることが、異常なまでに多い。英語で言えば“Let us think together”ですか。英語圏では逆に、一切聞いたことがないフレーズですね。

同じみんなで考えるにしても、「みんなでどうやって考えるんだよ」と脳科学者がおっしゃっていたことについて、考えたほうが良さそうです(笑)。

【養老】「みんなで考える教育」を受けてくると「俺は知らない」ということになります。

【藻谷】なるほど、みんなが考えるわけですから、一人一人は考えなくていいことになりますね。各人の考えは、どのみちみんなの考えではないし。

【養老】そう、そちらに働いていきます。さらに「自分で考えないでみんなに合わせましょう」ということにもなります。特に自分が関心のない話題についてはそうです。非常に狭い日常が現実になっていて、そこに出てこない問題は「俺は知らない」となってしまう。

だから私は「地震待ち」だと言っているわけです。「俺の食い物がない」という現実に直面しないと、本気で自分で考えようとしませんから。

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考えても役に立たない結論しか出てこない

【藻谷】「みんなで考えよう」って、「自分は考えられないので、誰か指示してください」というのと同じです。これって、ハラリ教授の言う「虚構の共有」(第1章参照)の最終形態ですね。

そもそも「みんなで考える」と、あまりに先入観通りの、役に立たない結論しか出てこないというのが実感です。考えるだけで行動にもつながらない。

ですが、結論部分が「みんなで考えよう」となっているような論文なんていうのも、日本では多々実在している印象があります。大学の先生方は学問の修業、博士課程などの間に「みんなで考える」ようになってしまうのでしょうか。

【養老】もっと小さいときからじゃないですか。

【藻谷】困ったことに、「みんなで考えている人たち」には、みんなで考えていることと違う現実が起きたときに、現実の方が頭ごなしに否定する傾向があります。前にも触れた通り、アベノミクスは日本のGDP(世界共通基準たるドル換算)を2割減らしたのですが、日本では与野党問わず「アベノミクスで経済は曲がりなりにも成長した」と「みんなで考えている」ので、誰もその事実に気づく気配すらない。

「みんなでやる」ならいいですし、「みんなで事実を確認し認識を共有する」のでもいいですが、「みんなで考える」のは時間の無駄でしかない。これは戦前からそうなんでしょうか。