点数がよければいい、知識だけを教えればいい…

【養老】「個性」とか「その人らしさ」は、だいたいは生まれつき変わらないものを言っています。

しかし、そういう価値を教育の中に持ち込むと、一番重要な価値に教育は関係ない、つまり教育は人間の本質的なことには関われないという常識ができてしまい、教育はいらないことになってしまう。それならば教師のやる気がなくなるのは当たり前です。

【藻谷】たしかに、個性というものは生まれつきの違いなのですから、個性尊重なのであれば、そこに教育は携わらない、知識だけを教えてればいいということになりますね。

【養老】そうです。だから教育が極めて表面的なものになって、点数がよければいいということになってしまう。

なにしろ日本は明治維新以来、外国からいいものが入ってきたら、それを摂ればいいという考え方でやってきたわけですから、教育はないですよ。だから、すぐに「他所ではどうやっているのか」という話になるわけです。

しかし、その意味では日本の教育は成功したんじゃないでしょうか。池田清彦くん(生物学者)が書いていますが、結局、戦後の日本の教育は卒業したらおとなしく会社に勤め、上司の言うことを聞いてきちんと働く人を養成したわけです。特に1960年代、70年代の大学紛争で懲りた国は、子供たちにそういう教育をするようになりました。

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机に向かうだけの教育はもうやめたほうがいい

【藻谷】その教育が、経済や企業を発展させるために、ものの見事に役に立ったということですか。

【養老】そうです。実際にそういう大人が育ったわけですから、日本の教育は有効だったということじゃないでしょうか。しかし、その教育はもういい加減やめたほうがいいと思います。

【藻谷】日本の学校教育はもともと、百数十年前のヨーロッパの教育の仕組みを日本に持ちこんだものでした。目的は富国強兵。当時の資本主義、軍事覇権主義むき出しの世界を、国としてサバイブするためだったのでしょう。

【養老】そうです。子供を椅子に座らせて教育するという、いまでも日本の学校で行われている方法は、19世紀のイギリスで産業革命とともに始まったと言われています。彼らはいまになって、「椅子の生活は不自然だから文明人の8割は年を取ると腰痛になる」といっています(笑)。

僕の記憶でも、小学校に入って初めて椅子に座って机に向かいました。しかし、畳での正座の仕方を教わったことはありますが、椅子の座り方は一度も教わった記憶がない。覚えているのは、椅子に座って頬杖をついたら、嫌と言うほど先生に叩かれたことです。