小林一三と五島慶太のアドバイス
興行街の実現に向けて鈴木は、昭和25(1950)年4月2日から6月30日までの3カ月間で「東京産業文化博覧会」を開催する。博覧会であれば、建築制限令の例外として大規模建築を建てることができ、それをのちに映画館などに転用しようという目論見だった。
ところが東京産業文化博覧会は好評でありながら、大きな赤字を残してしまった。通常であれば、東京都や新宿区なりの自治体が入って、公費が投入されるのだろうが、産業文化博覧会では鈴木が正面に立ち、責任をとって莫大な借財を抱えてしまう。
鈴木は借財の返済に追われながらも、東京産業文化博覧会の後始末に尽力する。復興院の総裁を務めていた阪急阪神東宝グループの創業者・小林一三から、鉄骨造の産業館(博覧会のメイン施設)の転用が上手くいけば、他はおのずから道は開けるという主旨の言葉を得ている。
そこで、当初の一括処分方式を変えて、産業館の処分に力を注ぐ。小林から紹介を受けたのか、東急の五島慶太とコンタクトをとることができ、その協力で東京スケート株式会社が昭和26(1951)年に設立され、産業館跡にスケートリンクが開業した。
ここが、のちに新宿東急文化会館(平成8年より新宿TOKYU MILANOに改称)が建ち、令和5(2023)年4月より東急歌舞伎町タワーとして開業する場所である。
前後してほかの建物も映画館などとして開業することができた。東京産業文化博覧会は鈴木に莫大な借財を残してしまったが、興行街を実現するという目的には大きく貢献することができた。
借金の代わりに歌舞伎町を作り上げた
昭和31(1956)年に、歌舞伎劇場の代わりに、東宝によるコマ劇場を開館することができ、鈴木の構想はほぼ完成している。
観光立国を目指し、エンターテインメントのまちをつくるという鈴木の構想は今でも生きており、歌舞伎町は日々変わりつつ新たに創造されている。危うさを抱えながらも人を惹きつけて止まない、そんな歌舞伎町の総合プロデューサーが鈴木喜兵衛だった。
その一方で、莫大な借財を抱えた鈴木は、表舞台から姿を消していく。鈴木喜兵衛は7回の引っ越しをして、郷里の家屋敷も売り、信州の別荘地も売ったのだ。
鈴木の名前は、現在、シネシティ広場に残された船の形を模した記念碑に小さく残っている。