義務を主張するとどうなるか

さて、一番大事なのは、説教めいた話はどれも、「義務」の概念に訴えているということです。わたしたちは、義務を果たさなかった人にそのことを気づかせようと努め、その人が気づくことで、今後よりよい人間になってくれることを期待します。

ところが、ここであっと驚くような逆転現象が起きます。バカとバカでないほうの人(わたしたち)の立場が入れ替わるのです。どういうことか、これから詳しく述べていきます。

実は、人は誰かに、道徳上の義務をもちだして説教をするとき、妙に含みをもたせた言い方になるのです。つまり、説教の種類が、直接的ではない、ほのめかしのような、言外の説教になるのです。

もちろん、具体的な状況における実際の会話は、最終的にはののしりあいになることもあります。

でも、とにかく、ごく単純な言葉の裏で、ある表現の仕掛けが働いているので、これからそれを明らかにしていきます。それは、実際にバカに言っている言葉には表れていません。話している当人も気づいていない、含みのようなものです。

それを言葉にして書きたすと、このような感じでしょうか。

「きみは本当なら、〜すべきだったのにしなかった(ぼくがどうこうじゃなくて、道徳上の義務だよ)。」

今のは、過去に焦点を当てて道徳上の義務を果たさなかったことを責めるパターンですが、未来に焦点を当てて義務を果たすように伝えるパターンだとこんな感じでしょうか。

「そういう行動はやめるべきだ(ぼくがどうこうじゃなくて、道徳上の義務を教えてあげているだけ。だって、ぼくの力ではきみのこんなバカな行動を阻止できなかったわけだから、ぼくはきみに意見するつもりはない)。」

こうして言語化してみると、話し手はとても不思議な態度を取っていることがわかります。話し手の実体が、話している本人とルールのふたつに分裂しているのです。

ルールは概念ですから、人が、人と概念に分裂する、というのがつかみづらければ、こんなイメージで考えてみましょう。話し手が鏡の前にいるとします。鏡には話し手の姿が映っています。話し手はこんな態度を取っています。

・物理的に言葉を発しているのはぼくの口
・きみの行動がいいか悪いか判断し、この話をしているのは、鏡の向こうの幻のぼく

不思議ですよね。要は、自分は別のものに口を貸しているだけだという態度です。これが仮に、預言者が神のお告げを口にするときの話なら、全く不思議ではありません。

言いかえると、この話し手の話は、自分の関与を隠すように組み立てられていて、自分が出している指示(「きみはこうすべき」あるいは「こうすべきではない」)を、外部の権威に託しているのです。

人はこうした説教めいた態度を取るとき、なぜいつも他の何かの判断をあおがないといけないのでしょうか。それは単純に、話し手が何かを義務だと言っても、その話し手の言葉だけでは、本当に義務だという信ぴょう性に欠けるからです。

つまり、そう主張している話し手には、相手を説得できるだけの権威がありません。というのも、相手から見れば、このとき実際にバカなのは話し手のほうだからです。

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分裂しているのは話し手だけではありません。説教をされる側のバカの実体も、やはりふたつに分裂していることがよくわかります。実際にバカなことをした人と、その人がなりそこねた、話し手の想像上の立派な人間がいるのです。

話し手が分裂していると考えると、人がバカに説教をするときの仕組みがわかってきます。話し手は、バカも分裂させて、そのままのバカと、バカのあるべき姿のふたつを見ているのです。これも、バカが鏡の前にいるとして考えてみましょう。

・そのままのバカ
・鏡の向こうにいる、バカがあるべき姿(話し手の思う立派な人)

要するに、ふたりが横並びで鏡の前にいるような構図です。誤解しないでいただきたいのですが、わたしには、相手を立派な人間にしようとすることに問題があるようには思えません。

なぜなら、説教で相手を変えて、人類が全員、みなさん(この場合、わたしの読者のみなさん)のようになれば、今よりずっとうまくいくでしょう。みなさんそうお思いになりますよね。わたしも同感ですし、心からそう信じています。