説教とは相手の価値体系を変えようとすること

もともと、わたしたちの頭の中には、「立派な人間になるためには、一通りの道徳上の義務がある」という、普段からもっている考えがあります。

バカな行為を目にすると、無意識のうちに頭が素早く働いて、自分の思う義務と、それと一致しない行為を、心の中で照らしあわせます。

そして、白い四角の枠に青い丸の積み木をはめこもうとしているサルのように、そのふたつをコンとぶつけあいます。でもどうしようもありません。それはぴったりはまらないのですから。

とはいえ、全てのふるまいをひとつの道徳観で評価し、その道徳観のベースとなる価値体系を相手に共有してもらおうという姿勢は、あながち間違っていないのではないかと、みなさんはお思いになるでしょう。それはわたしも同感です。

実は、説教が効果を上げるには、相手の側に、いくつかのルールを理解した上で、そのルールが有効だと認める能力がなければなりません。人が誰かに説教をするときには、そうした相手の能力をあてにしています。

そうやって、自分がバカであるがゆえにどんな行為をしているのか、本人に認識してもらうのです。というのも、バカは自分がバカなことをしたことに気づけば、当然、バカであることをやめるからです。

そういう意味では、わたしたちがすぐバカに説教をするのは、バカな人をバカなこと(行為)から引き離すための努力に他なりません。ひょっとしたら、それがいわゆる和解への第一歩になるかもしれません。

バカを敵ではなく味方にしたい。だから、味方になるようバカを説得するために、いわばこちらの世界のルールを説明するのです。向こうがそのルールを認めれば、どちらも、同じひとつの出来事を前にした、立派な人間になれるわけです。

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したがって、説教とは相手の価値体系を変えようとすること、となります。バカが自分の行動と自分自身を切り離し、こちらが大事にしている価値体系を採用することで、それまでは不適切なふるまいをしていても、以後、同じことを繰りかえさないようにしてほしいのです。

つまり、わたしたちは、相手の主観の方向性を変えようと努力しています。それが変われば、相手は自分の行為を、もともともっていたのとは別の道徳観である、こちらの道徳観と照らしあわせます。相手は自分の過ちに気づいたら、その道徳観に沿って人間性を高めなければなりません。

その際、わたしたちは、まず価値体系を共有しないことには、道徳観も共有できないということを理解します。どういうことかというと、人の道徳観には、ベースとなる価値体系(その人が物事について考える際の基準)があります。

価値体系は、物事に対する(質的な)判断で成り立っていますが、その価値体系に同意している場合に限り、それに沿った道徳観で人を比較して(量的に)点数をつけるようなことが可能です。道徳観だけを取りだして、ものさしのように使うことはできません。