当初、自民党は旧統一教会と組織的な関係はないと言い張り、世間の強烈な批判に押されて、後手後手で調査をやり始めましたが、世間は納得しませんでした。
本来、このような難題に関してはしっかりと政治マーケティングをすべきでした。
安倍さんの葬儀を国葬にするかどうかは、党内のみならず、メディアを通じて日本中での議論を促し、さらに旧統一教会問題についてもメディアを通じて世間の反応をしっかりと汲み取り、それに沿った決定、対応をすべきでした。
政治マーケティングを怠ったことによって、ただちに支持率が急落する典型例となってしまいました。
ビッグデータとAIをフル活用する
最近では、「民意を探るためのマーケティングや政策効果を検証するためのマーケティングにおいては、ビッグデータとAIをフル活用すべきで、それをやれば、既存の選挙や政治家は不要になる」という意見まであります。
既存の選挙制度では、若者の民意は政治に反映されない。政治家は自分が当選することばかり考えて、若者のこと、日本のことを考えてくれない。
このような思いから、今の選挙制度や政治家に絶望している若者が多いことも事実で、そんななか、政治をAI化して選挙や政治家を駆逐すればいいのではないかという意見が出てくることも理解できます。
もちろんこのような意見が出てくることになったのも政治の責任です。
たしかに純粋に民意を探ったり、政策の効果を検証するにはビッグデータとAIの活用は有効でしょう。これからの時代、政党や政治家はそれらをフル活用した政治マーケティングに力を入れなければならないことは事実です。
しかし、どれだけ精緻に民意を探っても、どれだけ科学的に政策効果を検証しても、無限に存在する政策については、必ず優先順位をつけざるを得ません。そしてあと回しにされた人には不満がたまる。この不満をなんとかなだめるものが選挙であり政治家です。
これからの時代は、負担、不利益、不満を国民に配分するのが政治の主な役割となります。
ビッグデータやAIを駆使して科学的、合理的に分析ができたとしても、国民の不満を最後に抑えることができるのは選挙で選ばれたことに正統性を有する政治家だというのが僕の政治観です。
政治に強い不満をもっている国民は、学者やコメンテーター、そしてAIの最終決断には従わないというのが僕の持論。「いや、従う」というのが選挙・政治家不要論の人たちの政治観でしょう。