ジェンダー平等は一貫した理念ではなかった
この記述は「党九州地方委員長西田信春(三三年二月逮捕)が警察で虐殺されたことは、三十数年後にようやく確認された」という文章の後に続けられ、女性党員については付け足しの印象を拭えない。そもそも『八十年』党史と『六十年』党史とでは、『六十年』の方が圧倒的に情報量は多く、二段組みの本文に年表を付けて737ページある。他方、『八十年』は一段組みで年表もない326ページで半分以下の量だ。にもかかわらず『六十年』における女性党員の記述の少なさはどうしたことだろう。『八十年』は党史全体を見てもかなり手厚く具体的で情緒に訴えかけるような筆致で女性たちの姿を描いている。
両党史の女性党員についての記述の質と量の落差からは、日本共産党が一貫した理念としてジェンダー平等を掲げてきたわけではないことがうかがえる。
ハウスキーパー制度の非人間性
それどころか非合法時代の戦前には「ハウスキーパー」という「制度」があった。その「非人間性」について文芸評論家の平野謙は、「中野重治や宮本顕治に一蹴されてしまった」ものの、「ひとつの欠陥を組織上のものとみるみかたは、わが革命運動には伝統的に欠如しているようである」と述べる。平野はハウスキーパー制度について記した「ある個人的回想」と題する文章を1978年2月27日号の「週刊朝日」に発表している。
当時の編集部が「ハウスキーパー」という言葉について、「昭和初期、共産党が非合法の時代、警察の目をくらますため、男性党員が、女性党員やシンパと同居して、普通の家庭生活をしているようにみせかけた。その女性党員やシンパのことをハウスキーパアと呼ぶ」という註をつけると平野は「一般的にはハウスキーパアとはそういうものだ」としたうえで、小林多喜二の遺作『党生活者』のなかのハウスキーパーの「非人間的な扱いかたをめぐって批判したとき、戦後はじめてハウスキーパア問題なるものが提起されたといっていい」と述べる(『「リンチ共産党事件」の思い出』平野謙、三一書房、1976年)。